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{{複数の問題|存命人物の出典明記=2016年12月4日 (日) 04:10 (UTC)|一次資料=2018年9月24日 (月) 17:35 (UTC)}}
'''加藤 秀俊'''(かとう ひでとし、[[1930年]]([[昭和]]5年)[[4月26日]] - )は、日本の[[評論家]]・[[社会学者]]。[[1989年]]([[平成]]元年)に[[外務大臣賞]]、[[1996年]](平成8年)に[[郵政大臣賞]]を受賞。
 
1964年には[[小松左京]]、[[梅棹忠夫]]らと共に『「[[日本万国博覧会|万国博]]」を考える会』を結成<ref>{{Cite book|title=SF魂|date=2006年7月20日|year=|publisher=新潮社|last=|author=小松左京}}</ref>。
 
== 来歴・人物 ==
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1954年(昭和29年)、[[ハーバード大学]]に留学。[[ヘンリー・キッシンジャー]]、[[デイヴィッド・リースマン]]らに学ぶ。
1955年(昭和30年)、リースマンの転勤についていき[[シカゴ大学]]へ。1959年(昭和34年)には、[[スタンフォード大学]]コミュニケーション研究所研究員になり、[[ウィルバー・シュラム]]のもと「国際コミュニケーション」の研究を行った。同年帰国するが4年後の1963年(昭和38年)から1年間、交換教授としてアイオワ州[[グリネル大学]]で教鞭をとる。そこでの一年の経験は『アメリカの小さな町から』という本にまとめられている。
 
1964年には[[小松左京]]、[[梅棹忠夫]]らと共に『「[[日本万国博覧会|万国博]]」を考える会』を結成<ref>{{Cite book|title=SF魂|date=2006年7月20日|year=|publisher=新潮社|last=|author=小松左京}}</ref>、[[日本万国博覧会|大阪万博]]のテーマや理念を検討。1968年(昭和43年)にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。小松、[[粟津潔]]、[[泉眞也]]らと、万国博の娯楽施設のプランもつくった
 
1967年(昭和42年)には、[[梅棹忠夫]]、[[小松左京]]、[[林雄二郎]]、[[川添登]]と「[[未来学]]研究会」を結成。1967年(昭和42年)、[[中山伊知郎]]を会長に「日本未来学会」を結成し、1970年(昭和45年)には「国際未来学会議」を日本で開催した。
 
また「未来学研究会」の仲間と「万国博を考える会」も結成し、[[日本万国博覧会|大阪万博]]のテーマや理念を検討。1968年(昭和43年)にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。小松、[[粟津潔]]、[[泉眞也]]らと、万国博の娯楽施設のプランもつくった。
 
1969年(昭和44年)1月京都大教育学部助教授(比較教育学)に就任したが、翌1970年(昭和45年)[[大学紛争]]で京都大を辞職。同年[[ハワイ大学]]東西文化センターのコミュニケーション研究所創設に伴い同所長就任要請を受けるが断り、行政的義務や時間的拘束のない同研究所の高等研究員に就任。