「時局匡救事業」の版間の差分

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==その後==
継続を望む声も強かったが、欧米先進国に先駆けて、日本はデフレ脱却し景気が好況となってきた状況もあり、時局匡救事業としては予定通り3年間で終了した。しかしながら一部の事業は[[1935年]](昭和10年)以降も災害復旧費などの名目で続けられている。一方では、満州事変(昭和6年9月)に代表されるような「持てる国、持たざる国(武力による満州進出・資源確保策こそが経済恐慌からの脱出策)」という国家社会主義経済観だっによる軍備予算増大策も強く影響していた。その代表例は[[近衛文麿|学生時代に京都帝国大学の河上肇を慕って東京帝国大学から転学した近衛文麿]]の「持てる国、持たざる国」の経済思想である。それは、世界恐慌以降、石原莞爾ら陸軍幹部らの満州進出の構想に強い影響を及ぼしていた。[[北一輝]]や大川周明らの右翼社会主義(天皇崇拝社会主義)の思想も経済思想は左翼社会主義の共産主義と同じで、金融政策、為替政策、財政出動策による内需拡大を目指す近代経済学のような「完全市場主義から決別、政府の経済への関与による景気対策」による経済成長論は無視するものであった。そうして主に陸軍は「資源確保のための軍事力拡大、植民地政策」に固執していた。一方では海軍の中でも条約派(まだ藩閥政治の色が濃厚な時代だったが、山梨勝之進、米内光政、山本五十六、井上成美らは高橋是清と同じく「賊軍出身者」だった。)や国家主義者も、その経済思想は否定していた。国家主義者だった宇垣纒でさえ陸軍の満州進出策批判していたが、宇垣の「乞食根性百まで遣らず。」の陸軍に対する揶揄は典型的であった。そうした「満州へ満州へ」の風潮、台頭により軍事費も増大し続けていた。そうしていたところ、日本の世界恐慌、デフレからの脱却に成功し景気が拡大したいたことから、高橋是清らはインフレ予防策としての[[出口戦略]]から財政拡大策の進路変更、財政の均衡化路線への復帰、軍事予算削減を主張しはじめていたが、[[1936年]](昭和11年)の[[二・二六事件]]で、「満州は資源の宝庫、日本経済の生命線」という、軍事力を背景にした植民地政策(満州での資源確保策)こそが救国策と頑なに思い込んだ国家社会主義に傾倒した青年将校らによって殺害されると、高橋是清らの「出口戦略」は頓挫し、財政悪化に歯止めがかからなくなった。尚、戦後のハイパー・インフレーションは、戦災による生産能力の極端な供給不足(国内の農業、工業の生産拠点は空襲によって廃墟化し、復員の遅滞による労働力不足も相まって、国内産業の供給力は壊滅状態ともいうべきものとなっていた。)によるもので、戦前の高橋らのデフレ対策としての経済政策はほとんど関係ない。
 
== 脚注 ==