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『モダン・エレクトリックス』誌(1911年4月号)で予定していた記事が入稿されない事態が起き、そのページを埋めるために、編集者であるガーンズバック自身が執筆したのが、近未来SF小説『[[ラルフ124C41+]] ──2660年のロマンス』であった。これが評判となり、1年間の連載となった。のちの[[1926年]]、ガーンズバックは世界初のSF専門誌『[[アメージング・ストーリーズ]]』を創刊した。同誌は、過去の優れたSF作品の再録や投書欄、読者の作品コンテストが人気を集めた。これによりガーンズバックは、“アメリカSFの父”“現代SFの父”と呼ばれるようになった。
ガーンズバックは資産があったが、事業としてニューヨーク初のテレビ放送の実験を行ったり自分の給料を高くする一方で、作家や商売相手への支払いが遅れていた。1929年に印刷所と紙問屋から訴えられ、『アメージング・ストーリーズ』などを出版していた
ガーンズバックは1930年に『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ』と『エア・ワンダー・ストーリーズ』を合併させて『[[ワンダー・ストーリーズ]]』を創った。『アメージング・ストーリーズ』同様に、投書欄に誌面を大きく取り、SFファンの活動を発展させた。しかし、後発のSF雑誌『[[アスタウンディング]]』が発展するにつれ、『ワンダー・ストーリーズ』の読者は減少していった。さらに、原稿料の安さや支払いの遅さといった問題があり、作家の[[ドナルド・A・ウォルハイム]]らにより訴えられた。1936年にガーンズバックは『ワンダー・ストーリーズ』を売却し、SFから離れて無線雑誌『ラジオ=クラフト』(後に『[[ラジオ=エレクトロニクス]]』に改題)と、1933年に創刊した
1953年、[[ワールドコン|世界SF大会]]にてSF功労賞(1993年に[[ヒューゴー賞]]と改名)が創設され、1960年にはガーンズバック自身に特別賞が贈られた<ref>[http://www.nesfa.org/data/LL/Hugos/hugos1960.html New England Science Fiction Association 1960年ヒューゴー賞の一覧](英語)</ref>。
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