「モーリス・オーダン」の版間の差分

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遺された妻のジョゼッテ・オーダンは失踪間もなく司法当局に夫の行方を調査するよう求め、8月には[[ル・モンド]]がオーダンの失踪を取り上げて世間の知るところとなると同時に有志による調査委員会も立ち上がった。1958年になって[[ピエール・ヴィダル=ナケ]]が、オーダンが脱出・逃亡したとは考えられずフランス軍将校の手によって殺されたと結論づけた調査報告を発表。しかし[[シャルル・ド・ゴール]]による[[フランス第五共和政|第五共和政]]成立でアルジェリア戦争に従軍していた軍人への[[恩赦]]が出され、真相究明の道が一旦断たれる。
 
その後ジョゼッテは、[[2007年]]に就任した[[ニコラ・サルコジ]][[フランス大統領|大統領]]に夫の死の真相解明を求める書簡を送ったが返事はなかった。[[2009年]][[1月2日]]には数学者となっていた長女の{{ill2|ミシェル・オーダン|fr|Michèle Audin|label=}}が、[[レジオンドヌール勲章]]の受章対象になっていたことに対し2007年の書簡の回答が得られていないとの理由から受章を拒絶している<ref>{{Cite web |date=2009-01-02 |url= https://blogs.mediapart.fr/edwy-plenel/blog/020109/la-lettre-de-michele-audin-nicolas-sarkozy|title= La lettre de Michèle Audin à Nicolas Sarkozy|publisher= MEDIAPORT|accessdate=2018-09-16}}</ref>。後任の[[フランソワ・オランド]]大統領は、[[2012年]]に[[アルジェ]]のオーダン記念碑を訪問し直ぐに国防省に対し真相究明を指示、[[2014年]]にオーダンが脱出・逃亡していないことを公式に認め失踪に関する文書も現在保管中であると発表した。
 
[[エマニュエル・マクロン]]大統領に代わると失踪に関する文書の公開を求める声が各方面から挙がり、[[2018年]]1月12日に文書が公開されたものの殺害を示す明確な記録は無かった。そして同年[[9月13日]]にマクロンは、1957年にオーダンが[[拷問]]中に死亡あるいは処刑されたと発表。同日、パリにジョゼッテを訪ね「許しを請う」と述べた<ref>{{Cite web |date=2018-09-16 |url=https://www.sankei.com/world/news/180916/wor1809160013-n1.html |title= 仏大統領、旧植民地独立派の拷問「国家責任」認める 「汚い戦争」の事実解明は「歴史家に」懸念も|publisher= 産経新聞社|accessdate=2018-09-16}}</ref>。