「中原鄧州」の版間の差分

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[[File:Kongokutsu Hall of Bairinji Temple in Kurume, Fukuoka.jpg|thumb|left|梅林寺の金剛窟(禅堂)]]
23歳の頃に蘇山が寺を出たのを契機に鄧州も下山。[[久留米]][[梅林寺 (久留米市)|梅林寺]]にて羅山元磨(らざん げんま)の門を叩いた。27歳(あるいは29歳)の時に羅山の許しが出て[[印可]]を得る。『南天棒禅話』ではその時、羅山は[[南宋]]の禅僧・虚堂智愚が悟りを妨げる10の心の病を示した「十病論」の中から、「第七の病は 一師一友の処にあり」<ref group="注釈">師も友も少なく、交際や知識の範囲が狭いという意味</ref> という教えを諭し、鄧州に諸国遍参の旅に出ることを命ずる。出立にあたって、法戦は真剣勝負でなくては役に立たぬから、これは何か1つ武器を持つに限ると[[阿蘇山]]中で見つけた長さ6尺5寸、太さ一握りに余る南天の木を削り、「臨機不譲師<ref group="注釈">「りんきふじょうし」。「機(こと)に臨んでは師をも譲らず」という意</ref>」と刻んで己の竹篦としたとしている。以上は大正4年に刊行された『南天棒禅話』にある南天棒獲得のくだりだが、6年後の大正10年に口述した自伝、『南天棒行脚録』では南天棒を得たエピソードは行脚開始直後ではなく、もう少し後の話として語られている<ref>飯塚 77-78p</ref>。
 
『南天棒行脚録』では円福寺まで初めての行脚に出てから、南天棒を得る30代半ばの頃までに、石應から懶翁、羅山と東海道から九州までおよそ24家の[[師家]]の元で修行をしている<ref>飯塚 89-90p</ref><ref>中原 142-144p</ref>。
=== 全国禅道場に殴り込む ===
 
その後、30歳になった鄧州は、東京本所天祥寺の鶴林和尚が輪番で総本山[[妙心寺]]に出向くに従って、彼の侍衣(師家の衣服や所持品、金銭を預かる役目。転じて、管長の秘書官的な役割を指す)に任じられ妙心寺に入る。その任務中に父・壽兵衛の訃報が届くが、鄧州は「棄恩入無為こそが真実の報恩じゃ。葬儀に列したからとて死んだ父は喜びもしまい」と帰国はしなかった。1年後、明治3年に任務を終えた鄧州は、[[周防国|周防]][[徳山藩]]の[[毛利元蕃]]<ref group="注釈">毛利元蕃は明治4年の5月まで徳山藩知事であった。鄧州が住山した時期は10月である。</ref> の招きで徳山毛利家の菩提寺である大成寺([[山口県]][[周南市]]舞車)の住職に任命された。折しもその年は[[奇兵隊]][[奇兵隊#脱隊騒動|脱隊騒動]]とその首謀者[[大楽源太郎]]の脱走騒ぎがあり藩内は混乱していたが、鄧州は禅道場を開設し、寺内に明治元年に解崩した澄泉寺<ref group="注釈">この数年前に[[国司親相]]が切腹した寺である。</ref> を再興した。大成寺には羅山門下の修行者たちが鄧州の元に馳せ参じ、大成寺は大いに賑わった。
 
明治6年、[[大徳寺]]、妙心寺両派から全国の末寺を視察するための本山議事の役目を仰せつかる。当時、明治4年に[[大教宣布]]の勅が発せられ、僧侶たちも[[教導職]]に就くことが要求されたので、そのために宣布の宣伝と僧侶の点検をする必要があった。鄧州は修行仲間とともに[[大教院]]のあった芝[[増上寺]]を出て、東海道沿いに説教活動を行った。その途路、遠州中山で毛利元蕃と再会し、彼から「中原」の姓を賜る。鄧州らは京都に到着し、その足で西日本各地を巡歴した。
明治33年(1900年)、肥前梅林寺での同門で[[建仁寺]]管長であった[[竹田黙雷]]の懇請により、この時期、円福寺師家となっていた宗般が[[清]]国に渡航しているので臨時の師家になるよう命じられた。鄧州の理解者である黙雷の説得に本山が黙認し非公式に了承してのことだった。形の上では兼任であったが、陸前と山城では距離がありすぎる訳で、事実円福寺へと旅立った鄧州は以後二度と大梅寺に戻ることはなかった。無期限の暫暇となった大梅寺に残された僧侶は四散し、鄧州が遺した借金の精算のために山林が売られた大梅寺はその後また無住の荒れ寺へと戻っていった<ref group="注釈">現在の大梅寺は昭和8年に再建されたものが主体である。</ref>。事実上の職務放棄であり、両親の位牌や京都から連れてきた小坊主の安松も置き去りにしてきた、鄧州にとっては後味の悪い退山となった。その後、大梅寺から荷札をつけて送り出された安松とは[[上野駅]]で再会。後に槐安を名乗った安松はやがて、[[玉川遠州流]]5代家元・大森宗龍の懇請により大森家の養子となり、7代目宗匠・大森宗夢となる。
 
円福寺に戻った鄧州はここで長年愛用していた南天棒を同寺に納めた。その齢になってまで持ち歩くものではないという黙雷の指摘に応じてのことだった。併せて以前、扇谷の達磨堂を修復する際に荒れ地から掘り起こした萩の木から作った棒も奉納した。元々六尺五寸だった南天棒を2つに切った物だという説もあるが、『南天棒行脚録』ではそのような話はない<ref name="竹田 202p">竹田 202p</ref><ref>中原 286-287p</ref>。
 
=== 海清寺赴任と、平塚らいてうとの出会い ===
 
*「道い得るも南天棒、道い得ざるも南天棒。肝を作れ、人を作れ」が座右の銘で、銘を記した書画を数多く残している。この言葉は、[[徳山宣鑑]]の言葉、「道い得るも也た三十棒、道い得ざるも也た三十棒、速かに道え、速かに道え」を自己流に転用したものである。鄧州は徳山を自ら理想像に掲げており、彼が棒を以て僧侶を殴り続けたのには徳山に倣い大衆の禅機を見出そうとする意図があってのことであった。
 
*鄧州16歳の時、大[[天狗]]の1人、奥山半僧坊を祀ることで知られる[[方広寺 (浜松市)|方広寺]]にて素行の悪さで知られた副寺(ふうす。寺の金、衣服、食料を管理する係の僧)が夜半何者かに拉致される事件が発生した。姿が見えぬ何者かが副寺を抱えて樹から樹へと飛び移る光景が目撃されたとして、堂内は騒然としていた。翌朝、住職の龍水和尚が、「当山鎮護の半僧坊権現が衆僧を警告するために、副寺を凝らしめて三里先の野原に捨てたぞ」と告げたので一同慄然とした。かくして、その副寺は3日後、三里先にある[[三方原]]で遺体となって発見された。この事件が契機となって、鄧州は[[狗子仏性]]の解を見出し、初めての大悟を得た<ref>中原 26-30p</ref><ref>飯塚 31-33p</ref>。
 
*円福寺での修行時代、本堂と達磨堂の間に松を植え、「松が先に枯れるか、ワシが先に死ぬるか、たとえ松は枯れてねワシは決して死なぬぞ」と誓った。その後、鄧州が80歳を越える頃には松の木も高さ15間、幅7尺の大木となっていた。この松の木は鄧州の法嗣で、後に妙心寺管長となった[[春見文勝]]の雲水時代には健在であったが、現在は伐採され、その木から作られた警策が大梅寺に残されている<ref>中原36-37p</ref><ref>菅原 24p</ref><ref>高橋 436p</ref>。
*体格は五尺七、八寸(172〜175cm175&nbsp;cm)で力は三人分ほどあり、その豪力は作務において遺憾なく発揮された。梅林寺での薪拾いの作務では、長さ九尺(約2.7m)、幅2寸の丸太を天秤棒にして12把の薪を担ぎ、3里の道を往復していた。後に随者となった平松兵卿にあの天秤棒はどうなったかと尋ねたら、旦過寮の床柱になっていたという<ref>平松 215p</ref><ref>中原 59-60p</ref>。
 
*体格は五尺七、八寸(172〜175cm)で力は三人分ほどあり、その豪力は作務において遺憾なく発揮された。梅林寺での薪拾いの作務では、長さ九尺(約2.7m)、幅2寸の丸太を天秤棒にして12把の薪を担ぎ、3里の道を往復していた。後に随者となった平松兵卿にあの天秤棒はどうなったかと尋ねたら、旦過寮の床柱になっていたという<ref>平松 215p</ref><ref>中原 59-60p</ref>。
 
*梅林寺での修行時代、蠟八接心成就のために鄧州が座禅の場として選んだのは、同寺にある底なしと評判の古井戸であった。鄧州は解定(就寝の合図)後、井戸の上に梯子をかけ、その上で座禅を組み夜を明かした。6年間の修行の間、横臥することはなかった。また、日々の座禅で眠くなる度に警策で手を打たれ続けたので、その手は[[胼胝|たこ]]によって、剣術家に剣の心得があるのかと問われるまでにごつくなっていた。後に見性寺から書物を借り受ける際、この手のせいで武士の変装だと疑われた<ref>中原 52-55p、67-68p、93p</ref>。
 
*印可を得た翌年の[[慶応]]2年、梅林寺にて『槐安国語』の提唱を行うことになり、同書がある熊本見性寺まで借り受けに行くことになった。だが、当時は[[長州征討#第二次長州征討|第二次長州征討]]での長州軍と小倉藩が戦闘している最中で、その道中は困難を極めた。至る所に関門があり、頑丈な体格の鄧州はその都度間者と疑われた。[[柳川]]からは山中を夜行でかき分け、道中出会った野武士を投げ捨てながらの行路だった<ref>中原 90-94p</ref>。
 
*大変な酒豪として名高く、酒にまつわるエピソードも多い。鄧州の師も弟子も、親友である鉄舟も、義子秀嶽もまた酒飲みであった。
:師の羅山も酒飲みであったらしく、彼の隠寮(私室)には酒が置かれていた。ある日、作務を終えた鄧州が隠寮に入り込み、侍者に酒をねだった。すると羅山が入ってきて「わしがついでやろう」と徳利を差し出すと鄧州も「ではこれで」と味噌をするすり鉢を突き出す。鄧州は羅山の酌で3杯の酒を飲み、本職より先に酒飲みとしての印可を得た。さらに、越渓老師もまた酒好きとして知られ、医師が止めるのも聞かず毎晩典座寮に忍び込んでは酒を物色していた。ある晩、雲水頭に見つかり、泥棒と問い詰められ、すり鉢を頭にかぶり隠れようとしたエピソードを語っている<ref>中原 64-67p、112-113p</ref>。
 
*豪放磊落な逸話が数多くある反面、日々の所作はとても綿密で、反古紙1枚無駄にしなかった。これは行燈の置き場所を畳の何寸目かまで細かく決めていたほど緻密で几帳面な師家として名高かった石應の教えが影響している。晩年の鄧州は自らの衣服、足袋、手拭いも卸したてのものを嫌い、古着をまとった。これをいいことに新しい衣服が届くと侍僧たちが入手し、鄧州には彼らの古着が回されたが、鄧州は「お誂え向きの古さじゃ」と喜んで身にまとった<ref>薄田 79-80p</ref>。
 
*中原の著作にはいずれも秀嶽が登場しておらず、平塚の『原始、女性は太陽であった』でも鄧州と秀嶽が義理の父子であることには触れていない。星悠雲は瑞巌寺での政宗木像事件で鼻を焦がした小坊主は秀嶽ではなかったのでは推測している。その時、鄧州反対派の1人であったのが、役僧をしていた実兄の永井智嶺であった。また、秀嶽が智嶺に伴われて大梅寺を去った際に、鄧州が釈宗演に宛てた手紙の下書きが大梅寺に残されている。その手紙には、2人が懇願しても一切構わぬよう、だが反省しているようならもう一度やり直させてくれないかと懇願している。その後、2人は宗演の元で修行することになる。秀嶽が海禅寺住職となった後は鄧州も参禅会に招かれている<ref>星 6p</ref>。
 
 
* 「この和尚、南天棒と聞いただけでは、体幹長大容貌怪偉、古の山法師と、今日に見るが如くにも想像せられるが、さて逢って見ると、これはしたり、肥えてはいるが身長五尺を出づること多からず、風采粗野なる好々爺。若し、これに、どんつく布子を纏わしめて、磯辺にでも佇ましめれば、寂然一個の老漁夫なるべき、また若しこれに、鍬を持たせて田甫に在らしめば、誰が眼にも、百姓爺は動かぬところ」――高島大円『熱罵冷評』<ref>高島 249-250p</ref>
 
* 「乗り降りにも難儀するほど不自由な体でありながら、顔だけには強い底力がむき出しに動いているを認めないわけにはいきませんでした。ベートーベンの顔をまるで獣のようだといった人がありますが、そんな意味において、この坊さんの顔もよく似た獣に似ていて獣の野性と敏捷さとが眼にちらついていました。名前をききますと、この坊さんが南天棒鄧州和尚でした。
:『やはり猛獣使いだ。あの眼がそういっている……』<br>
:私はそう思わずにはいられませんでした」――[[薄田泣菫]]『太陽は草の香がする』<ref>薄田 74p</ref>
 
* 「南天棒は元来無邪気で資性実に愛すべき好人物である。先度も話したが、南天棒の携帯を中止してはどうかといったら、根が正直にして純朴なる彼は忽ちその棒を投じて見せたが、彼は無邪気にして人の忠告を容れる余地あるのみならず、また能く人の善言を敢行する有るは感心で、要するに彼は一派管長の器量がある」――竹田黙雷『禅機』<ref> name="竹田 202p<"/ref>
 
* 「南天棒は、そのころすでに七十もよほどすぎた老僧でしたが、見かけたところ、真浄老師の痩せた枯淡そのものとは対照的に、肉づきのいい大柄で、酒好きらしい血色、頑固で、テコでも動かない田舎爺さんのような風貌の人でした」――平塚らいてう『原始、女性は太陽であった』<ref>平塚 263-264p</ref>
 
 
=== 論文 ===
* 平松亮卿「[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006457162 南天棒に參ずる乃木將軍]」[[駒澤大学|駒沢大学]]実践宗乗研究会年報 {{NAID|110006457162}}
=== 洋書 ===
* Mohr, Michel. 1996. Monastic Tradition and Lay Practice from the Perspective of Nantenbō: A Response of Japanese Zen Buddhism to Modernity. ''Zen Buddhism Today'' 12, 63–89.
* [http://keiwa-art.com/artist/nakahara/profile.html 中原南天棒(鄧州全忠)プロフィール] (古美術 景和)
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