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荘襄王は昭襄王・孝文王の政権を引き継ぐ形になり、これまでの功臣をそのまま登用し、[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]・趙を攻め、[[東周]]を滅ぼし、三川郡を設置する。ただし、東周の王族は存続させた。更にかつての[[長平の戦い]]の舞台となった上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。
 
[[紀元前247年]]に荘襄王即位後の戦争で37もの城を奪われた魏の[[信陵君]]が5ヶ国をまとめ上げて秦を攻め、[[蒙ゴウ|蒙驁]]([[蒙恬]]の祖父)率いる軍を破り[[函谷関]]まで秦を追い詰めた({{仮リンク|[[河外の戦い|zh|河外之戰}}]])。しかし、秦が信陵君と魏の[[安釐王]]が不仲だという噂を聞きつけ、信陵君と安釐王を引き離すための流言を流し、信陵君を政治から引き離す事に成功している。
 
同年5月丙午、35歳で死去。在位はわずか3年であった。