河外の戦い
河外の戦い(かがいのたたかい)は、紀元前247年に発生した秦と魏・趙・韓・燕・楚の五国合従軍の戦闘。
河外の戦い | |
---|---|
戦争:春秋戦国時代 | |
年月日:紀元前247年 | |
場所:河外(現在の黄河の南[1]) | |
結果:秦軍は敗走、合従軍は函谷関まで追撃 | |
交戦勢力 | |
秦 | 魏 趙 韓 燕 楚 |
指導者・指揮官 | |
蒙驁 | 信陵君 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
背景
編集紀元前257年、信陵君魏無忌は邯鄲の戦いで趙を救った功があった。その兄の魏の安釐王の虎符を盗み取り、魏の将軍の晋鄙を殺した。勝利したものの、魏の安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、信陵君と食客は趙に留まった。秦の荘襄王は信陵君が趙に滞在している事を知り、魏に大打撃を与える好機と思った。紀元前247年、大将の蒙驁は秦軍を率いて東向し魏を討伐するように命令した。秦軍は魏に侵攻し、魏軍は敗れた。秦軍の進攻に抵抗できず、魏の安釐王は使者を派遣し信陵君に帰国するように頼んだ。魏王の派遣した使者は黄金の綵幣を持参して、信陵君に帰国して秦軍に抵抗するように求めた。毛公と薛公の勧めもあって、信陵君は魏に帰国することを決意した。信陵君と魏の安釐王の兄弟は十年程会っておらず、再会すると互いに涙した。魏の安釐王は信陵君を上将軍に任命し、魏軍の最高統帥となった[2][3]。
河外の戦い
編集信陵君の帰国後、魏の安釐王は邯鄲の戦いでの罪を赦し、上将軍の印を授けた。信陵君は各国に書を送り、兵を派遣して魏を救援するように請求した。趙・韓・楚・燕等の国君は信陵君を丁重に迎え入れ、魏に援軍を送った。しかし、斉だけは発兵しなかった。信陵君は魏・趙・韓・楚・燕の五国合従軍を率いて秦に侵攻した。黄河の南で秦軍を大敗させて、秦軍は敗退した。合従軍は河外まで追撃し、秦軍を包囲した。河外でも勝利を収めた。合従軍は勝に乗じて、函谷関まで追撃した。秦軍は函谷関を堅守し、撃って出なかった。合従軍は退兵した。魏の安釐王は秦を破り、失った関東の地の快復の功により、上相となり、五城を封邑として賜った[4][5]。
脚注
編集- ^ 《史記正義》注:蒙驁被五国兵敗,遂解而卻至於河外。河外,陝・華二州也。
- ^ 《史記 巻七十七 魏公子列傳》:公子聞趙有処士毛公蔵於博徒,薛公蔵於売漿家,公子欲見両人,両人自匿不肯見公子。公子聞所在,乃間歩往従此両人遊,甚歓。平原君聞之,謂其夫人曰:「始吾聞夫人弟公子天下無双,今吾聞之,乃妄従博徒売漿者遊,公子妄人耳」。夫人以告公子。公子乃謝夫人去,曰:「始吾聞平原君賢,故負魏王而救趙,以称平原君。平原君之遊,徒豪挙耳,不求士也。無忌自在大梁時,常聞此両人賢,至趙,恐不得見。以無忌従之遊,尚恐其不我欲也,今平原君乃以為羞,其不足従遊」。乃裝為去。夫人具以語平原君。平原君乃免冠謝,固留公子。平原君門下聞之,半去平原君帰公子,天下士復往帰公子,公子傾平原君客。
- ^ 《資治通鑑 巻五 周紀第五》:蒙驁帥師伐魏,取高都・汲。魏師数敗,魏王患之,乃使人請信陵君於趙。信陵君畏得罪,不肯還,誡門下曰:「有敢為魏使通者死!」賓客莫敢諫。毛公・薛公見信陵君曰:「公子所以重於諸侯者,徒以有魏也。今魏急而公子不恤,一旦秦人克大梁,夷先王之宗廟,公子当何面目立天下乎!」語未卒,信陵君色変,趣駕還魏。
- ^ 《史記 巻七十七 魏公子列傳》:魏王見公子,相与泣,而以上将軍印授公子,公子遂将。魏安釐王三十年,公子使使遍告諸侯。諸侯聞公子将,各遣将将兵救魏。公子率五国之兵破秦軍於河外,走蒙驁。遂乗勝逐秦軍至函谷関,抑秦兵,秦兵不敢出。当是時,公子威振天下,諸侯之客進兵法,公子皆名之,故世俗称魏公子兵法。
- ^ 《資治通鑑 巻五 周紀第五》:魏王持信陵君而泣,以為上将軍。信陵君使人求援於諸侯。諸侯聞信陵君復為魏将,皆遣兵救魏。信陵君率五国之師敗蒙驁於河外,蒙驁遁走。信陵君追至函谷関,抑之而還。