「穆公 (魯)」の版間の差分

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{{基礎情報 中国君主
|名 =穆公 姫顕
|代数 =30
|呼称 =公
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|在位期間 =[[紀元前415年|前415年]] - [[紀元前383年|前383年]]
|都城 =[[曲阜]]
|諱 =[[ (姓)|姫]]
|字 =
|諡号 =穆公
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|注釈 =
}}
 
'''穆公'''(ぼくこう、? - [[紀元前383年]])は、[[魯]]の第30代君主。名は顕。[[元公 (魯)|元公]]の子で、元公の後を受けて魯国の君主となった。在位33年。在位期間中に改革を実行し、[[哀公 (魯)|哀公]]・[[悼公 (魯)|悼公]]・元公の3代にわたる[[三桓氏]]の専制の問題から脱却し、魯公室の権威を確立して、隣国の[[斉 (春秋)|斉]]とのあいだで数度の戦争を展開した。
 
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穆公元年([[紀元前415年]])、穆公は改革を実行するため、博士の[[公儀休]]を魯の相に任命し、三桓氏から政権を奪回すべく、親政を開始した。[[季孫氏]]はその封邑の費・卞・東野に拠って独立した小国となっていた。
 
穆公4年([[紀元前412年]])、斉が魯の莒と安陽(現在の[[山東省]][[陽穀県]]の)を攻撃したので、[[呉起]]を将として、斉軍を破った。
 
穆公5年([[紀元前411年]])、呉起が[[魏 (戦国)|魏]]に亡命した。斉が魯を討って都を取った。