「邦寿王」の版間の差分

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両親は、長男としての自覚と借財の尻ぬぐいまでさた事を盾に取り、無理やり見合いをさせられて、結婚にまでこごつけた。昭和26年(1951年)5月、心配した両親から津雲龍子と強引に結婚させられたが、邦寿は結婚に際し「洋子の病気が治ればすぐに離婚しよう。龍子には気の毒だが指一本触れまい」との決意で臨んでいた。龍子は新婚旅行にも連れて行かれず、入籍も先延ばしにされた<ref>河原敏明『天皇家の50年』p.133</ref>。龍子の思いは、2日、3日、4日と日は過ぎても、夫の邦寿が指一本触れない事が気がかりだったが、龍子も夜の生活はどのようになるか知識としては知っている。皇族育ちゆえ、その方面は知らないのかと思ったが、どうも態度がよそよそしい。新婚旅行をしないのは、皇室ではそのような例はないからと言われて納得していたが、どうもおかしい。新婚の夢が無残に破れウツウツとする龍子だった。
 
結局洋子は[[1952年]][[7月27日]]に死去したが、その後も、邦寿が、関西方面に出張する時は、墓に参りを忘れずに参り、法事にも毎回出席した。失業中の洋子の父親の南佐太郎の面倒を何かと見てやった。佐太郎は元皇族殿下が娘の対して、ここまで愛情と情けを与えてくれる事に、感涙した。洋子の実家は、入り組んだ狭い住宅地の角地にあり、病室だった部屋は、狭い路地に面していたが、薄暮になった頃、その部屋の近くで、食い入るように佇む邦寿の姿が洋子が亡くなった後、のち見かけられた。邦寿の気持ちが変わらなかったため、龍子は「どうか、これを機に、私を愛してほしいのですが」申し出た。邦寿は「初恋の女、洋子は忘れる事ができない。今までに、女と思うのは洋子だけだ」と話した。龍子は昭和30年(1955年)春に離婚した<ref>河原敏明『天皇家の50年』p.134</ref>。結婚生活は3年だった。龍子は義母の[[恒憲王妃敏子|賀陽敏子]]から「本当にすまなかったねぇ、あなたの半生を台無しにして。申し訳なさで言葉もないわ、どうぞ幸せな第二の人生をみつけてください」とのお詫びと励ましの言葉を受けて、龍子は処女のまま賀陽家を去った<ref>[[河原敏明]] 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』 [[講談社]]、2004年、193-214頁</ref>。龍子は、「最後まで私の体に触れなかったのが、せめてもの幸いでした」とさばさばした顔で話した。
 
皇籍離脱後、「石ばしる垂水<small>(たるみ)</small>の上のさ蕨<small>(わらび)</small>の萌え出づる春になりにけるかも」([[志貴皇子]] 巻8 1418)を揮毫し、この歌の石碑が春日宮天皇陵(志貴皇子の陵墓)前に設置されている。