「JR福知山線脱線事故」の版間の差分

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WP:JPE#単位およびWP:KANA。( "%" についても)。また主電動機の取替は予備品削減のためであって運転感覚の改善のためでは通常はありえない。制御特性の変更には加減速パラメータの変更を要する。なお「受傷機転」は用語として正しいもののわかりにくいためあえて「理由」とした。
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|type = [[列車脱線事故]]
|cause = JR側の不適切な企業体制による、運転士の精神的疲労に起因する速度超過
|trains = 21編成(4+3両編成)
|pax =
|deaths = 107人(乗客・運転士あわせ)
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== 概要 ==
[[2005年]]([[平成]]17年)[[4月25日]]午前9時18分ごろ、[[兵庫県]][[尼崎市]]久々知にある[[塚口駅 (JR西日本)|福知山線塚口駅]] - [[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]間の右カーブ区間<ref>{{coord|34|44|29.25|N|135|25|35.70|E|scale:10000}}</ref>(曲率半径304m304 [[メートル|m]]。塚口駅の南約1km1 [[キロメートル|km]]、尼崎駅の手前約1.4km4 km地点)で[[宝塚駅|宝塚]]発[[JR東西線]]・[[片町線|片町線(学研都市線)]]経由[[同志社前駅|同志社前]]行上り[[快速列車|快速]]([[列車番号]]5418M、7両編成<ref group="注">前4両は[[JR西日本207系電車#0番台|207系0番台]]Z16編成(クハ207-17+モハ207-31+モハ206-17+クハ206-129)同志社前行、後3両は[[JR西日本207系電車#1000番台|207系1000番台]]S18編成(クモハ207-1033+サハ207-1019+クハ206-1033)京田辺行。Z16編成は[[日立製作所|日立]]製、S18編成は[[近畿車輛|近車]]製。いずれも[[網干総合車両所]]所属。</ref>)の前5両が脱線した。うち前4両は[[線路 (鉄道)|線路]]から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲[[マンション]]「エフュージョン尼崎」([[2002年]]竣工)に激突。先頭車は1階[[ピロティ]]部の駐車場へ突入し、2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに[[列車脱線事故|脱線逸脱]]してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつくような状態で、1 - 2両目は原形をとどめないほどに大破した<ref>[http://www.mlit.go.jp/fukuchiyama/ 西日本旅客鉄道(株)福知山線における列車脱線事故について] - 国土交通省。2019年5月6日閲覧</ref><ref>[http://www.mlit.go.jp/fukuchiyama/image/050429.jpg 1両目前面付近]、[http://www.mlit.go.jp/fukuchiyama/image/050507_2.jpg 2両目内部]</ref>。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた。
 
事故列車は、直前の停車駅である[[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]で所定の停車位置を超過([[オーバーラン]])していた。これについて、事故が起きる前に運転士が[[車掌]]に対してオーバーランの距離を短く申告するように打診し、車掌が新大阪総合指令所(現・[[大阪総合指令所]])に対して約70m70 mのオーバーランを8m8 mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8m8 mのオーバーランと発表していた。<!-- また、塚口駅通過時に、約1分遅れと伊丹駅発車後に比べて遅れを約30秒回復しているとの証言がある。--> このことから、事故後にほかの[[鉄道路線|路線]]や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。さらにJR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への[[置石]]による脱線の可能性を示唆したことから、[[愉快犯]]による線路上への置石や[[自転車]]などの障害物を置くといった[[犯罪]]も相次いだ。
 
事故発生と同時刻には、並行する下り線に[[新大阪駅|新大阪]]発[[城崎温泉駅|城崎温泉]]行の[[特別急行列車|特急]]「[[こうのとり (列車)|北近畿]]3号」が接近中だったが、事故を目撃した近隣[[住民]]が近くの[[踏切支障報知装置]](踏切非常ボタン)を押したため、[[日本の鉄道信号#特殊信号発光機|特殊信号発光機]]が点灯。運転士が異常を察知し、およそ100m100 m手前で緊急停止して[[列車防護無線装置|防護無線]]を発報しており、[[二次災害|二重事故]]は回避された。事故後、現場の曲率半径304m304 mの曲線区間は制限速度70km70 [[キロメートル毎時|km/h]]から60km60 km/hに、手前の直線区間は120km120 km/hから95km95 km/hへとそれぞれ変更された。
 
事故列車は、4両編成と途中の[[片町線]](学研都市線)[[京田辺駅]]で切り離す予定だった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目の運転台のある車両に列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、[[航空・鉄道事故調査委員会]]が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108km108 kmの記録が表示されていた。ただし、これがただちに脱線時の速度を示しているとは限らない。先頭車両が脱線、急減速した影響で[[ジャックナイフ現象]]によって車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために、側面から玉突きになって被害が拡大したものとされる。
 
当時、事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、カーブ開始点付近の線路そば電柱に接触し<ref>[http://www.mlit.go.jp/fukuchiyama/image/050429_2.jpg 電柱]</ref>マンション脇の立体[[駐車場]]と同スペースに駐車していた[[乗用車]]を巻き込むとともに左に横転、マンション1階の駐車場部分へと突入し奥の壁に激突した。続く2両目も、片輪走行しながら、マンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に側面から挟まれるように追突されたことによって、建物に巻きつくような形でくの字型に大破。3両目は、進行方向と前後が逆になる。4両目は、3両目を挟むようにして下り線(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。なお、事故発生当初、事故車両の2両目部分が1両目と誤認されていたが、のちに本来の車両数(7両)と目視で確認できる車両数(6両)が一致しないことから[[捜索]]され、1両目が発見された。
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=== 被害 ===
近隣住民および下り列車に対しての[[二次災害|二次的被害]]は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は'''死者107名'''(当該列車の運転士含む)、'''負傷者562名'''<ref name="調査委員会(2007) p.12"/>を出す、交通機関の事故としては歴史に残る大惨事となった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、受傷機転理由として、かつて本項には、脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し内装部材や車体に押し潰されたことによる損傷などを負ったとする記載がされていたものもあるが、死因で最も多いものは、車内で飛ばされるなどして打撲受傷した、頭蓋底骨折、陥没骨折などによる脳挫傷、急性硬膜外血腫、硬膜下血腫などの脳と頭部の損傷であり、死者のうち42名、全体の40%40 [[パーセント|%]]を占めていた。そのほかに胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による[[窒息|窒息死]](圧死)、[[頸髄損傷|頚椎損傷]]、[[骨盤|骨盤骨折]]による[[失血死]]や[[挫滅症候群|クラッシュ症候群(クラッシュシンドローム]])などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により[[四肢|手足]]切断など[[後遺障害]]を伴う重傷者が複数人確認されている。
 
[[国鉄分割民営化|JR発足]]後の死者数としては、[[1991年]](平成3年)の[[信楽高原鐵道列車衝突事故]](死者42名)を上回る史上最悪となる死傷者を出した。[[戦後]]([[日本国有鉄道|国鉄時代]]含む)では、[[日本の鉄道事故 (1949年以前)#八高線列車脱線転覆事故|八高線の列車脱線転覆事故]](184名)、[[鶴見事故]](161名)、[[三河島事故]](160名)に続いて4番目、[[戦前]]・[[戦中]]にさかのぼっても7番目となる甚大な被害を出した。
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兵庫県警察および[[航空・鉄道事故調査委員会]]による事故原因の解明が進められ、[[2007年]](平成19年)[[6月28日]]に最終報告書が発表された<ref name="調査委員会(2007) p.12"/>。
 
[[航空・鉄道事故調査委員会]]の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304m304 mの右カーブに時速約116km116 kmで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論づけた。現在では現場の[[自動列車停止装置|ATS]]には速度照査機能が追加されたが、[[2005年]](平成17年)[[6月]] - [[2010年]](平成22年)[[10月]]までに速度超過で列車が緊急停止する事態が11件も起こっており、速度が出やすい魔のカーブとされている[http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101213k0000e040035000c.html]{{リンク切れ|date=2019-05-08}}。
 
なお、この脱線事故の原因の究明および以後の事故防止のために調査を行う航空・鉄道事故調査委員会が調査を行った。同委員会は[[2008年]](平成20年)[[10月1日]]に[[運輸安全委員会]]へ改組されているが、本項では組織名を航空・鉄道事故調査委員会のまま記述する。
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=== 列車速度超過説(事故報告書、通説) ===
航空・鉄道事故調査委員会の鉄道事故調査報告書によると、当日、当該列車運転士は、事故現場に至る以前から、[[JR東西線]](京橋 - 尼崎駅の正式名称)にてATS-P曲線速照機能が動作したり、分岐器制限速度を超過したり、ATS-SWの確認扱いを怠って非常ブレーキを動作させたりするなど、通常の運転ではあまり見られない操作を繰り返していたことが記録より判明している<ref name="調査委員会(2007) p.6-13"/>。
* [[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]→[[尼崎駅 (JR西日本)|尼崎駅]]:下り(各停)第4469M4469M列車(JR東西線を尼崎駅まで運行)
** [[加島駅]]直前のR=半径250 mの曲線の手前約99m99 mにて、ATS-Pによる常用最大ブレーキが1.8秒間作動。曲線制限速度いっぱいの65km65 km/hで曲線に入る<ref group="注">ただしP最大ブレーキ動作が短時間であることから、ランカーブ的にはそれほど問題のある運転ではないと考えられる。</ref>。
* 尼崎駅→[[宝塚駅]]:下り回送電第回4469M列車(事故時と反対方向への回送列車)
**[[川西池田駅]] - [[中山寺駅]]間で、[[日本の鉄道信号#閉塞信号機|閉塞信号機]]が進行にもかかわらず不自然に惰行し、10km10 km/h程度まで速度低下。
** 宝塚駅手前で[[場内信号機]]の停止現示を受けて手前で[[徐行]]していたあと、注意現示に変わると[[力行]]開始。現示制限速度の55km55 km/hを超えても力行カットせず、さらに分岐器にその速度制限40km40 km/hを超えた約65km65 km/hで進入。ATS-SWロング地上子(出発か)を踏んでATSベル鳴動するも確認扱いを行わず、非常ブレーキ作動し、進入ホームの手前端部付近で停止。ATS復帰扱いをし再起動するが指令に報告せず(報告義務あり)。
** さらに同駅構内で、ATS-SW誤出発防止地上子を踏んでふたたび非常ブレーキ作動し停止。このとき、列車が場内に進入してから規定時間(44秒)を超えていたことから<ref group="注">実際には84秒間掛かっており、それは1回目のSW非常ブレーキ動作で停止したためである。</ref>、誤出発防止地上子は即時停止情報を送出していた<ref name="調査委員会(2007) p.130"/>。なお、誤出発防止地上子により停止した場合は、指令への報告義務はない。
** 宝塚駅から折り返すため反対方向の運転室に移動するが、平均的運転士では[[マスター・コントローラー|マスコン]]キーを抜いてから1分程度で運転室を出るものの、2分50秒ほどかかった。
** ここまでいずれもダイヤ上の遅延は1分未満であり、大きく遅れているわけではなかった。
* 宝塚駅→京橋駅:上り快速電第5418M列車(事故列車)
**[[北伊丹駅]]通過後、[[伊丹駅 (JR西日本)|伊丹駅]]停止位置手前643m643 mで約113km113 km/hにて惰行時、ATS-Pの次駅停車予告アナウンスがあるもブレーキをかけず、手前468m468 mで約112km112 km/hのとき、[[自動列車停止装置#ATS-P|P]]の停車警報が鳴り、ブレーキをB7 - 8<ref group="注">常用ブレーキは8段階あり、7段階目から8段階目はほぼフルブレーキング状態である。</ref>に入れる。停止位置で止まりきれずに44m44 m[[オーバーラン]]したときに車掌が車掌弁を引き非常ブレーキにより停止、72m72 mのオーバーラン。なお、運転士は[[保安ブレーキ|直通予備ブレーキ]]も動作させていた<ref group="注">オーバーランしそうな時に直通予備ブレーキを引いて制動力を増加させるのは、指令への報告義務も無いことから、運転士の間で裏技として広まっていると言われる。</ref>。その後、後退させて駅に停車。
** '''伊丹駅を1分20秒延で出発後、車両及および線区最高速度の120km120 km/h±数km/hいっぱい'''<ref group="注">鉄道事故調査報告書でも、速度計の誤差が推定されている。</ref>'''で力行を続ける。[[塚口駅 (JR西日本)|塚口駅]]上り場内信号機手前で力行カットし、その後は微ブレーキを短時間操作したがほぼそのままの速度で惰行。事故現場のR=300半径304 mの右曲線(70km(70 km/h制限)に116km116 km/hで進入、脱線転覆した。'''
** なお、北伊丹駅辺りから事故現場の曲線まで、おおむね線形は一直線状であり、最高速度で走行していても事故現場の曲線の手前までは線形速度制限により減速する機会はほとんどない。
 
また、始発の宝塚駅やその次の停車駅である{{要出典範囲|[[川西池田駅]]に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違える|date=2017年1月26日 (木) 10:54 (UTC)}}など、不自然な運転を繰り返していたことも判明している。運転士がその遅れを取り戻そうと制限速度を超えた可能性、また、単純に焦りと動揺などからブレーキ開始位置を失念しかけるのが遅れた可能性もある。さらに、事故報告書p.17 - 18によると、オーバーランした伊丹駅を発車後、最高速度いっぱいで力行・惰行の最中に運転士から車掌に車内電話があり、伊丹駅でのオーバーラン報告について「まけてくれへんか」と交渉されたと言い、このことに気を取られすぎて、ブレーキ位置を失念した可能性もある(運転士がブレーキをかけなければ、そのままの高速度で70km70 km/h制限の曲線に進入することとなる)。
 
なお当該線区に設置されていた[[自動列車停止装置#改良形ATS(Sx形)|自動列車停止装置 (ATS-SW)]] はJR西日本ではもっとも古いタイプのものとされ、あたかもこれが事故を防げなかった原因であるかのような報道もあった。ATS-SWでも[[速度照査]]用の地上子などの設備を設置すれば速度照査機能の付加は可能であり、ATS-SWそのものがただちに事故原因につながるわけではない。ちなみに事故現場には速度照査用の地上設備は設置されていなかった。
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カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、[[フランジ#鉄道車輪|車輪フランジ]]の機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを動作させなければ脱線および横転の可能性は少なかったと言われた。のちの解析の結果、運転士はカーブ進入後、車体が傾きだしていたにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。
 
また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキをかけていた原因については、0番台の車両と1000番台の車両のブレーキのかかり方の違いによるものであるという見方もある。0番台と1000番台ではブレーキの動作が違っているため、207系の運転経験がある運転士は(他形式とは違い)20m)20 mほど手前から転がして微調整をかけるような運転の仕方が必要と話す。
 
==== 乗用車衝突説 ====
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目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として再教育などの実務に関連したものではなく、'''[[日勤教育]]'''という懲罰的なものを科していた。具体的には乗務員休憩室や詰所、点呼場所から丸見えの当直室の真ん中に座らせ、事象と関係ない就業規則や経営理念の書き写しや作文・レポートの作成を一日中させた。トイレに行くのも管理者の許可が必要で、[[プラットホーム]]の先端に立たせて発着する乗務員に「おつかれさまです。気をつけてください」などの声掛けを一日中させたり、敷地内の草むしりやトイレ清掃などを命じるなど、いわゆる「見せしめ」「晒し者」にする事例もあれば、個室に軟禁状態にして管理者が集団で毎日のように恫喝や罵声を浴びせ続けて[[自殺]]や[[鬱]]に追い込んだ事例もある。それが充分な再発防止の教育としての効果につながらず、かえって乗務員の精神的プレッシャーを増大させていた温床との指摘も受けている。
 
事故の当該運転士も、過去に運転ミスや苦情などで3回の日勤教育を受け、知人や友人に「日勤教育は厳しい研修だ」「一日中文章を書いていなければならず、トイレに行くにも上の人に断らなければならないので嫌だ」「日勤教育は社訓みたいなものを丸写しするだけで、こういう事をする意味が分からない」「給料がカットされ、本当に嫌だ」「降ろされたらどうしよう」と話していた。さらに、事故直前の伊丹駅での72m72 mのオーバーランの後、車掌にオーバーランの距離を少なく報告するように車内電話で要請したことも明らかになっている。
 
日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において[[国会議員]]より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くの[[メディア (媒体)|メディア]]で取り上げられることになった。
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=== ダイヤ面での問題 ===
事故発生路線である福知山線は、[[阪急電鉄]]の[[阪急宝塚本線|宝塚線]]・[[阪急神戸本線|神戸線]]・[[阪急伊丹線|伊丹線]]と競合しており、他の競合する路線への対抗策と同様、秒単位での列車の定時運行を目標に掲げていたとされている。特に尼崎駅においては各線と乗り継ぎできるダイヤを組んでいたため、列車の定時到着は乗客へのサービス上、ほぼ絶対の要件であった
 
120km120 km/h運転や停車時間が15秒などもともと全体的に余裕のないダイヤだった上、停車駅を次々と追加したにもかかわらず、所要時間は[[2003年]](平成15年)[[12月]]に快速が[[中山寺駅]]に停車するダイヤ設定前と同じであったため、[[余裕時分]]を削って以前と変わりない所要時間で走らせ、慢性的な遅延が出ていることは問題視されていた。特に当該列車においては[[基準運転時分]]通りの最速列車で、事故発生区間である塚口駅 - 尼崎駅間では[[2004年]]([[平成]]16年)[[10月]]のダイヤ改正によりさらに短縮されていた<ref name="調査委員会(2007) p.141-150"/>。
 
当時のJR西日本は施策で「余裕時分全廃」を掲げていた。
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当該事故発生前の現場周辺は、運行本数が多く速度も比較的高速な大都市近郊路線であるにもかかわらず、速度照査用の[[自動列車停止装置]]設備が設置されていなかった。JR東西線では開業時から全線でATS-Pが設置されていたが、福知山線においては付け替え区間も含めてATS-Pは当初設置されず、旧来のままとされた。
 
元々、福知山線では信号機に対する自動列車停止装置として、ATS-Pの代わりに、絶対停止機能と速度照査機能(点速度照査方式)のなかった従来の国鉄型ATS-S形の上位互換機種である[[自動列車停止装置#ATS-S改良形 (ATS-Sx形)|ATS-SW形]]<ref group="注">ATS-SW形は既存のATS-S形に絶対停止機能と速度照査機能の機能を付加した改良型であり、地上側の大規模な設備更新を必要とせず安全性を高めることができることから、コスト抑制のため多くの路線で採用された。</ref>が設置されていた<ref group="注">なお、この互換品はJR各社及びJRとの乗り入れが頻繁に多く行われる一部の私鉄([[伊豆急行]]など)で採用されている。</ref>が、速度照査を行うには速度照査用の地上子が必要だったものの、該当区間には速度照査用地上子(SN(SW照査子)が設置されておらず、事故前には速度照査は実施されていなかった。
 
旧国鉄時代からJR東西線が開業するまで、福知山線は上下線とも東海道本線へのアプローチが尼崎駅西側の外側線(列車線)に接続されていた。旧下り線は尼崎駅を出たあと東海道本線の南に分岐しそこから東海道本線を回り込む形で北上し現在のルートを通り現場のマンションの北側から直進していたが、旧上り線はそのままほぼ直進して南下し東海道本線の外側線に接続していた。のち、福知山線はJR東西線との直通運転を開始するにあたり、上下線ともに内側線(電車線)に接続させる必要が生じたことから大掛かりな線路の付け替えが行われ、特に上り線は、下り線に併設されていた尼崎市場への貨物線跡地などを利用した新しいルートを通ることとなり、現在に至っている。ただ、結果として、それまでより曲線半径が小さくなったのであった。カーブでは高速運転をするために[[カント (路線)|カント]]を付けるのだが、現場は[[線形 (路線)#緩和曲線|緩和曲線]]が短く、カントは上限105mm105 [[ミリメートル|mm]]より少ない97mm97 mmなので、その分制限速度が5km5 km/h低くなっていた(半径300m300 mで[[カント (路線)|カント]]105mm(105 mm(上限値)での制限速度は75km75 km/h。なお、従前の「本則」では60〜65km65 km/h)。
 
なお、現場のマンションはこの上り線の旧線跡の一部を利用して建てられたものである(2002年竣工)。
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ブレーキハンドルについては、ハンドル位置に、常用最大ブレーキ(B8)と非常ブレーキの間にどちらのブレーキ指令も発せられないポイントが存在していた。この区間は、0番台・1000番台・2000番台とで異なる位置だった。また事故を起こした編成の7両目のマスコンは、そのポイントが11°あり、他の車両よりブレーキ緩解区間が広くなっていた<ref name="調査委員会(2007) p.52-53"/>。
 
207系7両編成の前4両(0番台/[[日立製作所]]製)と後3両(1000番台/[[近畿車輛]]製)では、主[[電動機]](モーター)の出力<ref group="注">0番台155kW155 kW、1000番台200あるいは220kW(220 kW(いずれも1時間定格)</ref>や主制御器などの性能に微妙な差異があるため、回生時に発生するブレーキ力にも差がある。また、車両によってブレーキの利き方に違いがあり、事故車の先頭車は特に癖のある車両だったとの運転士の証言がある。ただし、[[近畿日本鉄道]]等いくつかの私鉄では基礎ブレーキ構造がそもそも違う<ref group="注">[[近鉄22000系電車|22000系『ACE』]]([[電気指令式ブレーキ]])と[[近鉄30000系電車|30000系]]『[[ビスタカー]]』(HSC-D[[電磁直通ブレーキ]])等</ref>車両を読み替え装置を使って併結している場合もあり、JR西日本でも同じ電気指令式ブレーキながら[[界磁添加励磁制御]]の[[JR西日本221系電車|221系]]と[[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御]]の[[JR西日本223系電車|223系]]を併結して運用することや、一部編成中に主電動機出力の差のある車両が混結されている[[JR西日本223系電車|223系0・2500番台]]<ref group="注">0番台はGTO-VVVF、電動機出力230kW(230 kW(新造当初は180kW)180 kW)。2500番台はIGBT-VVVF、電動機出力220kW220 kW。この他に[[JR西日本225系電車|225系]](電動機出力270kw)270 kW)との編成単位での併結もある。</ref>などのケースもあり、主電動機や主制御器の違いが事故の原因と大きファクターであったかに関して一概考え言えなが、。なお2015年以降0・500番台全車の主電動機が運転感覚の改善を目的に[[JR西日本323系電車|323系]]と同一のもの<ref group="注">WMT107・1時間定格出力220kW220 kW以上</ref>に交換されている<ref group="注">これらの措置は予備品削減のためであり、主電動機の換装時にはインバータ装置の再調整が実施される。交換される電動機は新旧ともに誘導電動機であるため、過渡特性が制御範囲内である限り、インバータ装置の加減速度決定パラメーターを変更しなければ同等の加減速特性が得られる。</ref>
 
===== 台車 =====
「使用している鉄道車両の台車がヨーダンパ付[[鉄道車両の台車史#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]](端梁なし台車DT50・TR235)であって、ねじれに弱い」と鉄道評論家の[[川島令三]]などが指摘している。そのねじれによりヨーダンパが跳ね上げ運動を起こし脱線したと論じており[[京浜急行電鉄]]・[[京阪電気鉄道]]・[[阪急電鉄]]などでは、[[鉄道車両の台車|台車]]は安全上軽量化すべき箇所ではないという考え方からボルスタアンカ付の台車を採用していることを論拠としている<ref group="注">ただし、京急および阪急の主張は台車は軽量化すべきではないであり、ボルスタレス構造そのものの否定ではない。事実、阪急はボルスタレス台車の機構に早い時期から注目していたことで知られ、現在でも8000系8040形および8300系の一部でヨーダンパなしのボルスタレス台車を装備している。京急の場合、ボルスタレス台車装着車が通過可能な限界に近い半径100m100 mの曲線区間が存在するため、転向性能で不利なボルスタレス台車を使用できないというのが実情である。同様に「京阪電気鉄道カーブ式会社」と揶揄されるほど本線に曲線が連続する京阪は、1977年にボルスタレス台車を試用したが、曲線通過性能が満足いくものではないとされ不採用となった。</ref>。また、異常振幅により空気バネが片方では大きく縮み、もう片方では大きく膨らんだため車体が傾いたのが脱線原因、とした報道もあった<ref>[http://www.doro-chiba.org/nikkan_dc/n2005_07_12/n6153.htm 6153号 尼崎事故・車両横転とボルスタレス台車 №4] - 日刊勤労千葉 2005年8月25日</ref>。
 
しかし一方で、軟弱地盤を抱えながらも高速運転を行っている[[東武鉄道]]では、古くからボルスタレス台車が使用されている。さらに、ボルスタレス台車の構造が事故原因とする[[#川島|川島令三の著書]]内容について、『[[鉄道ジャーナル]]』誌に鉄道評論家・交通研究家の[[久保田博]]による反論文が掲載。台車の基本的構造はボルスタアンカの有無にかかわらず変わるものではなく、また異常振幅に対するストッパは存在しており、空気バネが大きく伸縮することはあり得ないと反論した。
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原型を留めること無く[[ステンレス鋼]]体の車両が破壊された重大事故であることを鑑み、「客室内の空間が確保されるよう車体構造を改善することを含め、引き続き車両の安全性向上方策の研究を進めるべき」との所見が[[航空・鉄道事故調査委員会]]から提出されている。これをうけて、[[JR西日本223系電車#5500番台|223系5500番台]]以降の新型車両で、屋根と車体側面、台枠と車体側面への結合部材の追加、戸袋部(ドア)柱への補強の追加、車体側面の外板の材質変更をおこなっている<ref>{{PDFlink|[http://www.westjr.co.jp/ICSFiles/afieldfile/2010/01/29/1_20100129_fukuchiyama.pdf 福知山線列車脱線事故に係る対応策について]}} - 西日本旅客鉄道プレスリリース 2010年1月29日 p30</ref>。また、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[JR東日本E233系電車|E233系]]も製造当初から側面の強化を実施した。
 
全ての国鉄近代車両の設計に携わった、後の国鉄副技師長の[[星晃]]は、地方路線を高速で走る[[国鉄キハ80系気動車|80系特急型気動車]]の設計に際して、事故を考慮すると先頭部分を客室にすることは出来ないと述べ、先頭部分に機械室を設けた。80系特急型気動車は、設計時点の最高運転速度は110km110 km/h(実際の最高運転速度は100km100 km/h)であるが、その後に登場した、最高運転速度120 km/hの[[国鉄キハ181系気動車|181系特急型気動車]]では、機械室部分が延長された。また、山陽新幹線の[[博多駅|博多]]延伸開業に際して製作された[[国鉄キハ66系気動車|キハ66・67]]では、国鉄設計事務所関係者は、柱をなす垂直部材を台枠に差し込んで連結を強固にして、安全性を高めたと述べている。逆に、軽量化に注力し、客席を車端まで設置した車両では、1984年(昭和59年)[[7月21日]] に山陰本線で発生した特急「[[やくも (列車)|やくも]]」事故に見られるように橋脚が[[アルミニウム]]製車体の端部にめり込み、高運転台の運転士は助かった(後に自殺)が、乗客が死亡した事例がある。
 
==== 保守面 ====
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9時前、宝塚駅停車中、折り返しのため、車掌が尼崎方1両目から7両目に移動した際、運転士が最後部の運転席で3分以上座っており、車掌に気付き室内から出た際、車掌が直前の停車に対して「(ATS) Pで止まったん?」との問いに運転士は不機嫌な様子で無言のまま立ち去った。
 
9時1分頃、本来運転士が使用することのない無線の試験信号が指令所に受信される。事故調査報告書によると運転士は度重なったミスにより、宝塚駅到着前後には既に心身的に影響があったとしている。度重なったミスを車掌が指令所に報告しないか確認するため[[鉄道無線|無線]]に気を取られ<ref group="注">9:01時点の通常は使用しない無線試験信号が発出されたのは、運転士が無線装置に触っていた事を強く示唆している。</ref>、伊丹駅手前の停車ボイスを聞き逃し、伊丹駅を72m72 mオーバーランした。
 
伊丹駅を1分30秒で出発後、車掌を呼び出し「まけてくれへんか?」と求める。車掌の「だいぶと行っとるよ?」との返答に再度「まけてくれへんか?」と言ったところで乗客が乗務員室の仕切り窓越しに車掌にクレームを入れたため、車掌から電話を切った。車掌側の状況を知らない運転士は虚偽報告を拒否されたと思い、再度運転士は車掌と指令員の交信内容に注意を払っていた。そのためカーブの認識が遅れ、ブレーキを操作するも間に合わず脱線した。また、運転士の右手の手袋が外れており、運転席に赤鉛筆が落ちていたことから、事故直前、運転士は交信内容をメモしていたと思われる(メモは運転士用時刻表のケースに記されたと思われるが、事故の衝撃でケースが粉砕されたため内容は確認されなかった)。
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==== 路線の周辺環境 ====
電車が激突したマンションは、2002年(平成14年)[[11月]]下旬に建てられた。線路とマンション間の距離は6m6 mに満たなかった。海外メディアは事故当初この点について指摘しており、例えばフランスの[[TGV]]では、開業当時の線路と最寄の住居の距離は150m150 mもあった、としている<ref>『科学大辞典-MEGA』講談社</ref>。
 
== 運休から運転再開へ ==
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6月19日に尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が再開された。ダイヤは事故前から大きく変更されて朝[[ラッシュ時]]間帯の快速の所要時間はおよそ1分30秒伸ばされ20分になった。
 
当面の間、宝塚駅 - 尼崎駅間の最高速度は120km120 km/hから95km95 km/hに、事故のあったカーブの制限速度は70km70 km/hから60km60 km/hにそれぞれ引き下げられ、実際の列車走行時にはさらにそれより低い速度で運転されることも珍しくない。
 
尼崎駅 - [[新三田駅]]間に[[自動列車停止装置#拠点P|拠点P]]方式のATS-Pが導入され、6月19日から運用を開始する。従来のATS-SWも存置されているが、速度照査用地上子が設置され、事故現場においてATS-SWでの速度照査も開始された(詳細は[[速度照査#JR西日本|JR西日本の速度照査]]に記載)。
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事故車両は兵庫県警察に押収され、[[姫路市]]に保管されていた<ref>{{cite news |title=事故車両、レール 本格鑑定待つ物証、姫路へ |newspaper=[[神戸新聞]] |date=2005-05-12 |url=http://www.kobe-np.co.jp/rentoku/jr_amaren/jr_news/2005/2005051207.shtml |accessdate=2011-02-04}}</ref>が、[[公判]]で証拠として使用することがなくなったとして、2011年(平成23年)2月1日付けでJR西日本に返還されたが<ref>{{cite news |title=福知山線脱線:事故車両をJR西に還付…神戸地検 |newspaper=毎日新聞 |date=2011-02-03 |url=http://mainichi.jp/select/today/news/20110203k0000e040008000c.html |accessdate=2011-02-04}}</ref>、[[2018年]](平成30年)[[11月17日]]、事故の風化防止および社員教育活用のため事故当該の車両を保存する意向を明らかにした<ref>{{cite news |title=JR西社長 脱線事故車両、社員教育活用へ 全7両保存し |newspaper=毎日新聞 |date=2018-11-17 |url=https://mainichi.jp/articles/20181118/k00/00m/040/094000c |accessdate=2018-11-22}}</ref>。ただし、解体された4両については保存可能な状態となっているかは不明である。
 
[[@nifty|ニフティ]]ニュース編集部は2019年3月に、「平成の間に国内で起きた事故の中で、印象に残っているのは?」というテーマでアンケートをとった。1位は「JR福知山線脱線事故」で70.5%5 %であった。全地域別に見ても、全年代別に見ても、男女別に見てもすべて1位であった<ref>[https://news.nifty.com/article/item/neta/12225-205476/ 平成に国内で起きた事故で印象的なもの 1位 JR福知山線脱線事故 70.5%] @niftyニュース 2019年03月01日(2019年8月27日閲覧)</ref>。
 
== 事故現場マンションと補償問題、慰霊 ==