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== 竹島領有権主張との関係 ==
{{See also|于山島|竹島|竹島問題}}
[[大韓民国]]では古文献や古地図に登場する「于山島」を現在の[[竹島]]と解釈しており、[[三国史記]]の記述にある「于山国」の領域を[[鬱陵島]]と[[竹島]](韓国名、[[独島]])としている。ただし、三国史記の記述には鬱陵島以外の島のことは記されていない。三国史記では512年に于山国が[[新羅]]に服属したとあるため、韓国は現在の竹島(韓国名:独島)は512年以来、韓国・朝鮮領になっていると主張している。
 
また、[[朝鮮国王]]が国家統治の際にあたり、手もとにおいて[[百科事典]]のように参照した[[1808年]]刊行の『[[万機要覧]]』には、
 
{{quotation|
輿地志に曰く、鬱陵島と于山島は皆于山国の地であり、于山島は倭人のいうところの松島である<ref name=kim121 />。
}}
との文言がある<ref name=kim121>[[#金|金 (2007)pp.121-123]]</ref>。これは、韓国では于山島が「独島」であることを明白に示したものであるとの理解が示されている<ref name=kim121 />{{refnest|group="注釈"|『万機要覧』は、[[1770年]]編纂の『[[東国文献備考]]』に収載された、[[申景濬]]編集の「輿地考」分註の「輿地志云 鬱陵 于山 皆于山國地 于山則倭所謂松島也」(輿地志に言う、鬱陵、于山は皆于山国の地で、于山は即ち倭の所謂松島である)の一節を引いたものであり、当時、日本では、現在の竹島のことを「松島」と称していたため、韓国政府は「独島」(=松島=現在の竹島)が于山で、于山が于山国の一部である以上、朝鮮領であったという見解に立っている。また、この一節のなかの『輿地志』は[[安龍福]]が日本に訴願しに来る40年前の[[1656年]]に[[柳馨遠]]によって編纂されたものであることから、安龍福の証言以前から朝鮮が領有していたと主張しており、韓国では竹島領有権主張の最も有力な証拠と考えられている。これに対し、日本では[[1950年代]]の外務官僚[[川上健三]]の詳細な文献・地図の比較分析によって、当時の「于山国」における于山・鬱陵二島説は「まったくの観念的なもので、なんら実際の知識に基づいたものでないことを端的に示している」という批判が加えられ、日韓間の領有権論争に大きな影響をあたえた<ref name=kim121 />。}}。
との文言がある<ref name=kim121>[[#金|金 (2007)pp.121-123]]</ref>。これは、韓国では于山島が「独島」であることを明白に示したものであるとの理解が示されている<ref name=kim121 />。
 
== 脚注 ==