「岩倉使節団」の版間の差分

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元々[[大隈重信]]の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の[[文明開化]]に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて[[条約改正]]交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
 
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は[[髷]]と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の[[岩倉具定]]らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、[[シカゴ]]で断髪 。以後は洋装に改めた。
 
== 目的 ==