「アッシュル・ダン3世」の版間の差分

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最新の英語版、en:Ashur-dan_III oldid=963826853 から内容及び脚注を導入。日食名en:Eclipse of Bur Sagale以外は全文入っているはず。あと説明を追加執筆(状況的に被っている部分はアッシュール・ニラリ5世と同内容とした)。
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'''アッシュール・ダン3世'''('''Ashur dan III'''、在位:[[紀元前772年]] - [[紀元前755年]]<ref>{{cite book|last=Boardman|first=John|title=The Cambridge Ancient History Vol. III Part I: The Prehistory of the Balkans, the Middle East and the Aegean World, Tenth to Eighth Centuries BC|year=1982|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0521224963|page=276|url=https://books.google.com/books?id=vXljf8JqmkoC&pg=PA276 |accessdate=19 October 2013}}</ref>)は、[[アッシリア|新アッシリア王国]]時代の[[アッシリア]]の王である。彼の治世に[[日食]]([[:en:Assyrian eclipse]])が観測された事が記録に残っている。
 
== 来歴 ==
[[アダド・ニラリ3世]]の息子として生まれ、兄王[[シャルマネセル4世]]の後を継いでアッシリア王となった彼の治世は、アッシリアの王政にとって厳しい時代だった<ref>Rowton, M.B. (1970). [https://books.google.com.au/books?id=7SOL7ypj7bAC&printsec=frontcover&redir_esc=y#PPA202,M1  The Cambridge Ancient History]. 1.1. [[Cambridge University Press]]. pp. 202–204. {{ISBN|0521070511}}.</ref><ref>[http://www.ancientmesopotamia.org/people/ashur-dan-III.php  Ashur-Dan III] {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20190213183549/https://www.ancientmesopotamia.org/people/ashur-dan-III.php |date=2019-02-13 }}.</ref>。前王時代より引き続いて将軍<ref>タルタン。「総司令」または「首相」に相当する語。アッシリア軍の本来の総司令は王なのでナンバーツーに相当する地位だが、このときのように役職者の威信が高くなりすぎると王権が圧迫される場合もあった[[:en:Turtanu]]参照。</ref>{{仮リンク|シャムシ・イル|en|Shamshi-ilu}}が大きな勢力を振るっており、また宦官の勢力も依然として強力であったため、彼自身の権力はかなり制限されたと考えられる。王権が弱く、また地方長官の自立傾向が目立った時代であったため大きな業績は無いが、[[歴史的シリア|シリア]]への遠征や反乱の鎮圧の記録が残っている。
 
[[リンム]]による年誌によれば、紀元前765年、アッシリアを疫病が襲った。このため、翌年の記録では「王は国に留まる」と記述され軍事遠征は行われなかった。通例、アッシリア王は毎年のように遠征を行っており、この言葉は記録の残る紀元前858年から紀元前699年までの間で15回しか使われていない<ref name="limmu"/>。紀元前763年にリッビ・アリで反乱が起こり、さらに[[アラプハ]]や[[テル・ハラフ|グザナ]]での反乱も続き、紀元前759年まで続いた。紀元前759年にはもう一度疫病が起きた<ref>Budge, Annals Of The Kings Of Assyria (Routledge, 2013) p154.</ref><ref>E. A. Wallis Budge, Annals Of The Kings Of Assyria: The Cuneiform Texts With Translations, Transliterations From The Original Documents (Routledge, 30 Apr. 2007) p94.</ref>。紀元前758年にグザナへの遠征が行われてようやく平和が回復され、その後2年連続で「王は国に留まる」と記述されている<ref name="limmu"/>。国力もしくは王個人の疲弊が窺われる。
 
彼の死後、弟の[[アッシュール・ニラリ5世]]が王位を継いだ。
 
== 日食と新アッシリア時代の編年 ==
アッシリアでは毎年[[リンム]]と呼ばれる役職に1人の人間が選出され、毎年の記録はその年のリンム職にあった人間の名前で記録された(詳細は[[アッシリア]]を見よ)。アッシュール・ダン3世の治世中のリンム、ブル・サギレ(Bur-Saggile, グザナの総督)の年の3月([[バビロニア暦#月|シマヌ]])に日食が起こったことが記録されているが、<ref name="limmu">{{Cite web|url=https://www.livius.org/articles/concept/limmu/limmu-list-858-699-bce/|title=Limmu List (858-699 BCE)|date=2020-09-24|website=Livius.org|url-status=live|accessdate=2020-10-18}}</ref>。この日食が[[天文学]]的に[[紀元前763年]]6月15日に発生したことが割り出せるため、この年がアッシリア[[年代学]]の基点となっている<ref>Rawlinson, Henry Creswicke, "The Assyrian Canon Verified by the Record of a Solar Eclipse, B.C. 763", ''The Athenaeum: Journal of Literature, Science and the Fine Arts'', nr. 2064, [https://books.google.com/books?id=L5dTAAAAcAAJ&pg=PA660#v=onepage&q&f=true 660-661] [18 May 1867].</ref>。このため、アッシュール・ダン3世の治世と連結可能な記録が残っていれば、非常に正確な編年を割り出すことが可能である。たとえば、新アッシリア時代の各王の治世年などは、この年を基点にして統治年数を加算、減算することで割りだされている。
 
== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
{{先代次代|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア王]]|前772年 - 前755年|[[シャルマネセル4世]]|[[アッシュール・ニラリ5世]]}}