「陸羽」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Cite wikisourceテンプレート修正 |
編集の要約なし |
||
1行目:
{{Otheruses|[[中国]]・[[唐]]の時代の文筆家|その他}}
[[File:Lu Yu.jpg|250px|thumb|[[西安]]・[[大雁塔]]にある陸羽の像]]
'''陸 羽'''(りく う、[[733年]] - [[804年]])は、[[中国]]
[[日本]]の[[思想家]][[岡倉天心|岡倉覚三]](天心)はその著書『[[茶の本]]』の中で陸羽を「'''茶道の鼻祖'''」と評した<ref name="aozora">[http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html 岡倉覚三 村上博訳 茶の本] - [[青空文庫]]</ref>。
== 出自 ==
[[File:Haruki Nanmei A portrait of Lu Yu(part) 春木南溟筆 陸羽像(部分) 天保12年.jpg|thumb|200px|[[春木南溟]]筆 陸羽像(部分) 天保12年]]
陸羽は[[捨て子]]であった可能性が高く[[出自]]は[[wikt:不明|不明]]である<ref name="ina">井波律子(編集)「中国史重要人物101 2005年 新書館 ISBN 4403250203</ref>。そのため、確実ではないが生年733年、出身地を
陸羽の姓「'''陸'''」については彼を拾った[[僧侶]]の俗姓をもらい陸とした、又は[[易]]の卦(け)にしたがって名付けた、などの説が伝えられている<ref name="ina"/>。
== 経歴 ==
捨て子として3歳くらいの時に浜で竟陵龍蓋寺の智積禅師に拾われた。容貌はさえず、しゃべり方に[[吃音]]があったが、雄弁であったという。
幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。
逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。[[天宝 (唐)|天宝]]年間に、
[[756年]]([[至徳 (唐)|至徳]]元
[[大暦]]年間に、湖州
== 伝記資料 ==
{{wikisourcelang|zh|作者:陸羽|陸羽}}
* 『[[新唐書]]』巻百九十六 列伝第百二十一隠逸<ref>{{Cite wikisource|title=新唐書/卷196|author=
== 脚注 ==
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
*
*成田重行 『茶聖陸羽 茶経を著した偉人の生涯』 淡交社、1998年、ISBN 978-4473016249
*『中国の茶書』 布目潮渢、中村喬編訳、平凡社〈東洋文庫〉、1983年、ISBN 978-4582802894
|