「国際母語デー」の版間の差分
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==歴史==
{{main|ベンガル語国語化運動}}
宗主国[[イギリス]]がインドを去る[[1947年]]、かつての植民地は[[宗教]]を基に[[インド]]と[[パキスタン]]に分けられた。[[イスラム教]]を基に成立したパキスタンは、西パキスタンと東パキスタン
イスラム教徒の言語による団結を掲げた[[ジンナー]]はじめ[[パキスタン]]政府は、ウルドゥー語を全パキスタンの唯一の[[国語]]として掲げ、メディアや学校などでウルドゥー語のみを用いさせようとした。これに対しダッカ大学の学生がすぐさま抵抗を開始した。1952年2月21日、学生たちは抗議活動を宣言した。中央政府は法令144を発動し、集会を禁じることでこの封じ込めにかかった。集会は反政府行動とみなし、射殺する、とした。[[2月21日]]、集会を開いている学生たちがいた。行動を中止しようと言う 学生たち、命を賭して戦おうと言う学生たち。結局学生たちは命より言語
Rafiq
▲Rafiq, Jabbar, ShafiurそしてSalam、その他、勇気ある学生たちが犠牲となった。彼らの倒れた[[ダッカ]]大学構内の地に、[[ショヒド・ミナール]](言語に殉じた若者 たちの碑)が建てられた。碑は、悲しみの母と倒れた息子たちを表している。 母語を死守しようして倒れた息子たちを思い、母は頭(こうべ)を垂れる。後ろ の赤い円は、死んでいった若者たちの血である。人が命に代えて言語を守ったのは、歴史で初めてのことだった。
なお[[ショヒド・ミナール]]のレプリカは世界各地に建てられている。日本にも、[[池袋駅]]近くの公園に存在する。
==国際母語デーの意義==
世界の[[共通語]](Lingua Franca)としての英語の圧倒的な隆盛の一方で、消滅したりといった危機にさらされる言語が後を絶たない。このような状況下、国際母語デーの意義は大きい。近年バングラデシュ国内では、隣接するインドからのテレビ放送により主に子供達の間に[[ヒンディー語]]が広まりつつあり、その反動としてベンガル語愛護運動が盛んとなっている。このベンガル語愛護運動のよりどころとして、この国際母語デーは存在感を増している。
== 関連項目 ==
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