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日本遺産について加筆
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{{出典の明記|date=2016年4月}}
{{日本の城郭概要表
|img = 画像:Oshi-jo.JPG
|img_capt =模擬御三階櫓
|img_width =260px
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'''忍城'''(おしじょう)は、[[武蔵国]][[埼玉郡]]忍(現在の[[埼玉県]][[行田市]])に存在した[[日本の城]]である。[[埼玉県指定文化財一覧|埼玉県指定旧跡]]。
 
[[室町時代]]中期の[[文明 (日本)|文明]]年間に[[成田氏]]によって築城されたと伝えられており<ref name="行田教委">{{Cite web|url=https://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/osijyouato.html|title=忍城址|publisher=行田市教育委員会|date=2015年11月2日|accessdate=2016年4月17日}}</ref>、北を[[利根川]]、南を[[荒川 (関東)|荒川]]に挟まれた[[扇状地]]に点在する広大な[[沼地]]と[[自然堤防]]を生かした構造となっている<ref name="歴史">{{Cite web|url=https://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/rekisi.html|title=忍城に関する歴史|publisher=行田市|date=2014年5月26日|accessdate=2016年4月17日}}</ref>。数度の城攻めを受けて、ついに一度も落城しなかった要害堅固な城として知られる。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[関東七名城]]の一つ<ref>{{Cite book|和書|author=[[埼玉県]] 編|title=新編埼玉県史 通史編 2 中世|publisher=埼玉県|year=1988|page=943}}</ref>、[[1590年]](天正18年)に[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に伴い発生した[[忍城の戦い|攻城戦]]の際、豊臣方の水攻めに耐え抜いた逸話から'''浮き城'''<ref name="歴史"/>または'''亀城'''と称された<ref name="歴史"/><ref>{{Cite book|和書|author=戦国合戦史研究会編|title=戦国合戦大事典第2巻 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県 山梨県|publisher=[[新人物往来社]]|year=1989|isbn=4-404-01642-5|page=142}}</ref>。
 
[[江戸時代]]に入ると[[忍藩]]の藩庁あるいは[[徳川氏]]の[[譜代大名]]や[[親藩]]の居城となり、[[阿部氏]]の時代には御三階櫓が新たに建設されるなどの城郭改修や城下町の整備が行われた<ref name="行田教委"/><ref name="歴史"/>。[[明治維新]]後、[[1871年]]([[明治]]4年)の[[廃藩置県]]と同時に廃城となり、[[1873年]](明治6年)に土塁の一部を残して取り壊されたが<ref name="行田教委"/>、城跡は[[埼玉県指定文化財一覧|県指定記念物]]の旧跡に指定されている<ref name="行田教委"/>。また、本丸跡には御三階櫓が再建され<ref name="行田教委"/>、水堀や沼地の一部は[[水城公園]]として整備されている<ref>{{Cite book|和書|author=[[平井聖]]|title=[[日本城郭大系]] 5 埼玉・東京|publisher=[[新人物往来社]]|year=1979|isbn=4-404-00976-3|page=174}}</ref>。[[2017年]][[平成]]29年)4)[[4月28日]]に[[文化庁]]が認定する[[日本遺産]]ストーリー「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」の構成資産([[文化財]])のひとつに加えられた<ref>[https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story041/ 日本遺産ポータルサイト](文化庁)</ref>。
 
== 歴史・沿革 ==
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[[1478年]](文明10年)ごろ、地元の豪族であった[[成田正等]]・[[成田顕泰|顕泰]]父子がこの地を支配していた[[扇谷上杉家]]に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている<ref>従来は[[成田親泰]]の築城とされてきたが、{{要出典範囲|近年の研究で成田氏系譜の誤りが判明し、親泰の祖父とされる正等の築城と考えられるようになった。|date=2016年4月}}</ref>。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰[[太田道灌]]の仲介によって和解して以後、[[成田氏]]が領有した。{{要出典範囲|[[河越城の戦い|河越夜戦]]後、[[後北条氏|北条氏]]が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。|date=2016年4月}}
 
[[1559年]](永禄2年)、[[上杉謙信]]が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。[[1561年]](永禄4年)の上杉謙信による[[小田原城]]攻めには、当時の城主の[[成田長泰]]も参加している([[小田原城の戦い (1560年)|小田原城の戦い]])。しかし、[[鶴岡八幡宮]]での[[関東管領]]就任式後に離反。[[1574年]](天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている。
 
[[1590年]](天正18年)、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐|関東平定]]の際、城主・[[成田氏長]]は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・[[成田泰季]]を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった([[忍城の戦い]])<ref>{{Cite book|和書|author=埼玉県 編|title=新編埼玉県史 通史編 2 中世|publisher=埼玉県|year=1988|page=716}}</ref>。[[豊臣秀吉|豊臣方]]の忍城攻めの総大将は[[石田三成]]で、[[大谷吉継]]、[[長束正家]]、[[真田昌幸]]等も加わった<ref>{{cite web|url=http://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/isidadutumi.html |title=石田堤 |publisher=行田市教育委員会 |date=2011-10-31 |accessdate=2012-04-20 }}</ref>。三成は、本陣を忍城を一望する近くの[[丸墓山古墳]]([[埼玉古墳群]])に置き、近くを流れる[[利根川]]を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28[[キロメートル|km]]におよぶ[[石田堤]]を建設した<ref>ただし、当時の書状の中で三成は忍城水攻めを批判しており、またこの時点では一介の奉行でしかなかった三成の身分からしても、独断でこれだけの規模の水攻めを行えたかは疑問である。また、包囲に加わった[[浅野長政]]にも秀吉から水攻めを続行するようにとの命令が届き、士気が下がる事この上なかった、と浅野家文書に記されている。</ref>。しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった<ref name="meisyo">{{cite web|url=http://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/rekisi.html |title=忍城に関する歴史 |publisher=行田市 |date=2011-05-11 |accessdate=2012-04-20 }}</ref>。このことが、'''忍の浮き城'''という別名の由来となった。
 
=== 江戸時代 ===
[[徳川家康]]の関東入部後は、家康の四男の[[松平忠吉]]が忍城に配置され<ref name="meisyo"/>、以後、[[忍藩]]10万石の政庁となった。[[1639年]]([[寛永]]16年)に[[老中]]・[[阿部忠秋]]が入ると城の拡張整備が行われ、往事の縄張りは[[1702年]](元禄15年)ごろに完成したと考えられている。
 
[[1823年]]([[文政]]6年)に[[阿部氏 (徳川譜代)|阿部氏]]が[[白河藩|白河]]に移り、[[桑名藩|桑名]]から[[松平忠堯]](奥平松平氏)が入った<ref name="meisyo"/>。
 
忍城の[[城下町]]は、[[中山道]]の裏街道[[宿場町]]としての機能や、付近を流れる利根川の水運を利用した物流路としての機能を兼ね備えて繁栄する。また江戸時代後期からは、[[足袋]]の産地として名をはせるようになる。
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=== 戦後 ===
忍公園が拡張され、[[1949年]][[昭和]]24年)10月には本丸跡に[[行田市本丸球場]]が造られた<ref>{{PDFlink|[http://www.city.gyoda.lg.jp/kouhou/kouhoushi/shihou_gyoda/2002/200212/021216_16.pdf 市報ぎょうだ平成14年(2002年)12月号16ページ ぎょうだ歴史系譜(105) 行田の戦後史(5) 忍公園から本丸球場へ]}}</ref><ref name="asahi1">{{Cite web|date=2011-01-29|url=http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000571101290001|title=内堀埋めて「本丸球場」-マイタウン埼玉|publisher=朝日新聞社|accessdate=2011-07-14}}</ref>が後に移転し、[[1988年]]([[昭和]]63年)[[2月17日]]にはその跡に行田市郷土博物館が開館、[[御三階櫓]]は博物館の一部として「忍城鳥瞰図」や文献などをもと鉄筋コンクリート構造によって外観復興されている<ref name="meisyo"/>。ただし位置や規模は史実とは異なり、内部は展望室や行田の歴史を写真や資料で紹介する展示室として利用されている。また、周囲には[[土塁]]の一部が残存している。
 
[[2017年]](平成29年)、[[続日本100名城]](118番)に選定された<ref>「浜松城や忍城など選定 = 「続100名城」-日本城郭協会」時事通信、2017年4月6日</ref>。
 
== 構造 ==
[[ファイル:Gyoda Suijo Park 1.JPG|thumb|220px|right|[[水城公園]]]]
[[湿地帯]]を利用した[[平城]]であった。元々[[沼地]]だったところに[[島]]が点在する地形だったが、沼を埋め立てず、独立した[[島]]を[[曲輪]]として、[[橋]]を渡す形で城を築いた。当初は[[櫓]]を立てずに[[本丸]]は空き地とし、[[二の丸]]に[[屋敷]]を作ってそこを住まいとしていた。そのため、攻めにくく守りやすい城であったとされる。
 
当時の沼の名残は、現在[[水城公園]]に見て取れる。
 
== 考古資料 ==
=== 遺構 ===
現存する建造物としては、北谷門が[[加須市]]の[[總願寺]]に、どこの門か定かではないが[[高麗門]]形式の城門が郷土博物館の駐車場脇に、それぞれ移築され現存している<ref name="asahi1"/>。また、藩校進修館の門が郷土博物館の南側に移築現存する。なお、往時の城を伝えるものとして本丸土塁が残っている。
 
<gallery>
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毎年11月の第二日曜日に、「行田商工祭・忍城時代祭り」が行われる。主会場は、行田市役所と行田市産業文化会館である。市役所前の通りから忍城にかけて武者行列(午前に1回)、忍城の堀にて火縄銃演武(午前と午後に1回ずつ)などが行われる。
 
また[[2008年]](平成20年)からは、近年の[[B級グルメ]]の発展によりB級グルメ大会が行われるようになった。[[フライ (鉄板焼)|行田のフライ]]や[[ゼリーフライ]]のほかに、全国各地のご当地グルメが出店する。
 
== 現地情報 ==
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** [[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]][[行田市駅]]下車、朝日バス[[吹上駅 (埼玉県)|吹上駅]]行き。または徒歩15分。
** [[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[高崎線]]吹上駅下車、2番のりば朝日バス前谷経由行田市各方面行き(1番のりば佐間経由の場合、新町1丁目停留所下車徒歩10分)。
** JR東日本高崎線[[行田駅]]または[[秩父鉄道]][[秩父鉄道秩父本線|秩父本線]][[ソシオ流通センター駅]]下車、行田市内循環バス 西循環コース右回り。
** その他 行田市内循環バス 上記以外各コース(西循環右回り含む)で終点行田市バスターミナルより徒歩5分。また、北西循環コースも「忍城祉・郷土博物館前」バス停を経由しており、行田市バスターミナルにて西循環の左回りまたは北西循環の右回りに乗車しての利用も可能。
* 自家用車:[[埼玉県125128熊谷羽生線]]沿い。
 
== 脚注 ==
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== 忍城が舞台となった作品 ==
=== 小説 ===
* 『笄堀』([[山本周五郎]])
* 『[[水の城 いまだ落城せず]]』([[風野真知雄]])
* 『風来忍法帖』([[山田風太郎]])
* 『[[のぼうの城]]』([[和田竜]])
* 『紅蓮の狼』([[宮本昌孝]])
 
== 関連項目 ==
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* [http://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/kouen.html 水城公園]
* {{国立国会図書館デジタルコレクション|993837/122|改正三河後風土記・下|format=EXTERNAL}}
 
{{続日本100名城}}
{{デフォルトソート:おししよう}}