「ギヨーム10世 (アキテーヌ公)」の版間の差分

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{{基礎情報 皇族・貴族|人名=ギヨーム10世|父親=[[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]|配偶者3=マリー・ド・カール|配偶者2=エマ・ド・リモージュ|画像説明=[[1643年]]頃にマルテン・ペピンによって制作された聖ベルナールと共に描かれたアキテーヌ公ギヨーム10世。バレンシエンヌ美術館(英語版)
。|画像サイズ=250px|画像=Guillaume X d'Aquitaine.jpg|宗教=[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]|母親=[[フィリッパ・ド・トゥールーズ]]|家名=[[ポワティエ家]]|各国語表記={{lang|fr|Guillaume X duc d'Aquitaine}}|子女=[[アリエノール・ダキテーヌ|アリエノール]]<br>[[ペトロニーユ・ダキテーヌ|ペトロニーユ]]<br>ギヨーム・エグレ|死亡日=[[1137年]]4月9日|配偶者1=[[アエノール・ド・シャテルロー]]|生地=[[フランス王国]]、[[File:Blason ville fr Toulouse (Haute-Garonne).svg|25px]] [[トゥールーズ]]|出生日=[[1099年]]|在位=[[1126年]] - [[1137年]]|家名・爵位=アキテーヌ公<br>ポワティエ伯|没地=[[File:Bandeirareinogaliza.svg|25px]][[ガリシア王国]]、[[File:Bandera de Santiago de Compostela.svg|25px]] [[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]}}
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'''アキテーヌ公ギヨーム10世'''('''Guillaume X duc d'Aquitaine,'''[[1099年]] - [[1137年]]4月9日)、もしくは'''ポワティエ伯ギヨーム8世'''('''Guillaume VIII comte de Poitou''')、<ref>[http://fmg.ac/Projects/MedLands/AQUITAINE.htm#GuillaumeXAquitainedied1137 Sa généalogie sur le site Medieval Lands]</ref> '''ル・トゥールーサン'''('''''le Toulousain,聖[[トゥールーズ]]公''''')もしくは'''ル・サン(''le Saint,聖者公'')'''と称され知られていた。
 
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アキテーヌ公[[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]と2人目の妻で[[トゥールーズ伯]]ギヨーム6世の娘[[フィリッパ・ド・トゥールーズ]]の長男として生まれる。
 
父同様に芸術を愛し、[[トルバドゥール]]、音楽、文学の[[パトロン]]であった。また当時は支配者層であっても[[識字率]]が低く読み書きができる者が少なかったが、ギヨーム10世は高い教育を受けており、教養深い人物であった。娘達にも自分と同じように質の高い教育を身に付けさせることに苦心した。
 
ギヨーム10世は芸術愛する文化的な人物でもあったが、統治者・戦士としては粗暴で好戦的な面を持っており、フランス王国内における数々の紛争に関わった。
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[[ノルマンディー]]に対抗すべく、[[アンジューの領主一覧|アンジュー伯]][[ジョフロワ4世]]と同盟を結んた。その一方、穏やかな国境北部でオーニス(<small>[[:fr:Aunis|フランス語版]]</small>)の自分の臣下イゼンベール・ド・シャトライヨンを制御するために長期にわたる戦争を強いられ、その他国境内において、武力を用いて制御した者が起こした反乱にも対処しなければならなくなった。
 
外交におけるいて、ギヨーム10世は、[[1130年]]2月に[[ローマ]]で教皇ホノリウス2世が死去し、次期教皇の座を巡り[[枢機卿]]の間で[[インノケンティウス2世]]と[[アナクレトゥス2世 (対立教皇)|アナクレトゥス2世]]の両派に分裂して抗争が起きた際、5年間は教皇インノケンティウス2世を支持する司教達に反発し[[アングレーム]]司教ジェラール2世と反教皇アナクレトゥス2世を支援していた。しかし、[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]と謁見した際にインノケンティウス2世を正当な教皇として認めるよう説得されたことにより考えを改め、インノケンティウス2世を支持するに至った。
 
[[1137年]]4月9日の[[聖金曜日]]、ギヨーム10世は反教皇アナクレトゥス2世を支持したことに対する贖罪のための[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]への巡礼中、[[食中毒]]に罹患して死去した。
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死の床でギヨームは友でもあった主君フランス王[[ルイ6世]]に自分の亡き後、当時15歳程であった長女[[アリエノール・ダキテーヌ]]の後見及び、彼女に相応しい結婚相手との縁組を頼み遺した。ギヨームの遺言通りルイ6世はアリエノールの後見人となり、自分の息子の王太子[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ]]と結婚させた。
 
[[中世]]終期にギヨーム10世の逸話の一部が伝説上の人物[[ギヨーム・ド・ジェローヌ]]と聖ギヨーム・ド・マラヴァッレ(<small>[[:fr:Guillaume de Malavalle|フランス語]]</small>)の基になったとされる。
 
== 結婚と子女 ==
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== 外部リンク ==
 
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** [http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb16938162x Bibliothèque nationale de France] ([http://data.bnf.fr/ark:/12148/cb16938162x données] )
** [http://d-nb.info/gnd/137334508 Gemeinsame Normdatei]
 
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[[Category:ポワティエ家]]
[[Category:トゥールーズ出身の人物]]
[[Category:アリエノール・ダキテーヌ]]
[[Category:カペー朝の人物]]
[[Category:フランスの公爵]]
[[Category:フランスの伯爵]]
{{DEFAULTSORT:ぎよむ10せい}}
[[Category:中世フランスの人物]]
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[[Category:アキテーヌの歴史]]