「ギヨーム10世 (アキテーヌ公)」の版間の差分

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[[ノルマンディー]]に対抗すべく、[[アンジューの領主一覧|アンジュー伯]][[ジョフロワ4世]]と同盟を結んた。その一方、穏やかな国境北部でオーニス(<small>[[:fr:Aunis|フランス語版]]</small>)の自分の臣下イゼンベール・ド・シャトライヨンを制御するために長期にわたる戦争を強いられ、その他国境内において、武力を用いて制御した者が起こした反乱にも対処しなければならなくなった。
 
外交においてギヨーム10世は、[[1130年]]2月に[[ローマ]]で教皇ホノリウス2世が死去し、次期教皇の座を巡り[[枢機卿]]の間で[[インノケンティウス2世]]と[[アナクレトゥス2世 (対立教皇)|アナクレトゥス2世]]の両派に分裂して抗争が起きた際、5年間は教皇インノケンティウス2世を支持する司教達に反発し[[アングレーム]]司教ジェラール2世と反教皇アナクレトゥス2世を支援していた。しかし、[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]と謁見した際にインノケンティウス2世を正当な教皇として認めるよう説得されたことにより考えを改め、インノケンティウス2世を支持するに至った。
 
[[1137年]]4月9日の[[聖金曜日]]、ギヨーム10世は反教皇アナクレトゥス2世を支持したことに対する贖罪のための[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]への巡礼中、[[食中毒]]に罹患して死去した。