「コンスタンティヌス朝」の版間の差分

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コンスタンティヌス1世から[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]まで、共同統治による同時即位を含めて5人(コンスタンティヌス1世の父[[コンスタンティウス・クロルス]]を含めると6人)の正帝を出した。ユリアヌスが[[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシア]]への遠征の陣中で没すると、後継者が定まっていなかったため、兵士たちはユリアヌス配下の将軍[[ヨウィアヌス|フラウィウス・ヨウィアヌス]]を皇帝として擁立し、コンスタンティヌス朝によるローマ帝国支配は終焉を迎えた。ただし、コンスタンティウス1世とコンスタンティヌス1世の血筋自体は後世に存続しており、[[東ローマ帝国]]の[[アナスタシウス1世]]も子孫の一人である。アナスタシウス1世の姪エイレーネーはコンスタンティヌス朝後の王朝である[[ウァレンティニアヌス朝]]と[[テオドシウス朝]]、ローマ帝国末期の有力貴族アニキア家の血を引くアニキウス・オリブリオス・ミノール([[西ローマ帝国]]の[[ウァレンティニアヌス3世]]の曽孫でもある)と結婚。なお、下記系図にもあるが、[[ウァレンティニアヌス朝]]の[[ウァレンティニアヌス1世]]はコンスタンティヌス1世の異母弟ユリウス・コンスタンティウスの孫娘ユスティナを後妻としており、夫妻の間に生まれた娘ガッラが[[テオドシウス朝]]の[[テオドシウス1世]]の後妻となり、[[ガッラ・プラキディア]]が生まれており、ガッラ・プラキディアはウァレンティニアヌス3世の母である。
 
以上の様に、コンスタンティヌス朝、ウァレンティニアヌス朝、テオドシウス朝の3王朝は縁戚関係や婚姻関係を結び、その血筋は少なくとも[[6世紀]]の終わりから[[7世紀]]の始めまで[[コンスタンティノープル]]のローマ貴族であり続け、その血筋も8世紀後半まで確認が取れる
 
また、ユリアヌスの異母兄で、アナスタシウス1世の先祖の1人でもある副帝を務めたガッルスの母ガッラの血筋を遡ると、セウェルス朝初代皇帝・セプティミウス・セウェルスの母方の従弟ガイウス・フルウィウス・プラウティアヌス(150年頃 - 205年)に辿り着く。ガッルスはセウェルス朝の諸皇帝達(セプティミウス・セウェルス、カラカラ、ゲタ、ヘリオガバルス、アレクサンデル・セウェルスの5人)と血縁・縁戚関係にあり、コンスタンティヌス朝はセウェルス朝と遠縁である。このガッルスとその妻コンスタンティナ(コンスタンティヌス1世の娘の為、夫妻は従姉弟同士でもある)の家系も少なくとも8世紀後半まで存続した。
 
== コンスタンティヌス朝皇帝一覧 ==