「有馬頼義」の版間の差分

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1950年に『[[改造 (雑誌)|改造]]』第1回懸賞に応募した『河の唄』で選外佳作入選。1951年、『皇女と乳牛』で『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』懸賞入選。
 
1952年に[[田辺茂一]]と知り合い、同人誌「文学生活」に参加。1954年、これに発表した作品を集めた自費出版『終身未決囚』を、戦後財産のほとんどを失った父が残った土地を売って作った資金で自費出版し、この本が認められ第31回[[直木賞]]受賞。この後『別冊文芸春秋』『[[オール読物]]』『面白倶楽部』などに旺盛に作品を発表。1955年の書下ろし長編『姦淫の子』は、モデル問題によって廃版になった。
 
===推理小説===
1956年「三十六人の乗客」以来推理小説も書き、『四万人の目撃者』『リスと日本人』『殺すな』は、同じ高山検事の登場する三部作となっている。従来の推理小説の謎解きに加え、人間性の掘り下げ、社会生活の中での人間と事件の分析を行い、当時[[松本清張]]とともに社会派推理小説と呼ばれた。1957年に父が老衰死。1958年に発表した短編「[[ガラスの中の少女]]」は、[[吉永小百合]]と[[後藤久美子]]の主演で2度映画化されている。
 
『貴三郎一代』は型破りな初年兵を主役にした[[悪漢小説]]的な作品で、のちに『[[兵隊やくざ]]』の題で[[大映]]で映画化されて大ヒットし、シリーズ化もされた。
 
1959年、『四万人の目撃者』で[[日本探偵作家クラブ賞]]受賞。賞に推された際は、野球小説のつもりで書いたとして辞退していたが、[[江戸川乱歩]]の強い薦めにより賞を受けた。
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1972年5月、[[川端康成]]の死に誘発されてガス自殺未遂を起こし、一命は取り留めたものの、以後はいくつかの随筆を書いた程度で執筆活動から遠ざかった。
 
遺族の証言では、以前から睡眠薬による極度の[[薬物依存症]]であったのが原因と言われる<ref>『想い出の作家たち 2』</ref><ref>子息・有馬頼央の回想(『武将の末裔』p.57-p.58 『[[週刊朝日]]』ムック ISBN 978-4-02-277033-2)</ref>。
 
また1971年の『小説現代』8月号に発表した『カストリ雑誌前期』において、そこで引用した匿名の小説について「作者の創作でなく盗作である。盗作の事実を認めず[[慰謝料]]を払わなければ新聞沙汰にする」との脅しを受け、内密に約100万円の慰謝料を支払わされたことがあり、これを取り次いだ編集者の[[大村彦次郎]]は自殺未遂にこの事件が尾を引いていないかとしている<ref>(大村彦次郎『文壇うたかた物語』[[筑摩書房]]、1995年。pp.220-221)</ref>。
 
「[[東京空襲を記録する会]]」で「東京大空襲・戦災誌」の編纂代表を務め、1974年に[[菊池寛賞]]を受賞。友人には「トノ」の愛称で呼ばれていた<ref>『兵隊やくざ 戦後編』光文社 1987年([[色川武大]]「解説」)</ref>
 
===晩年===
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==作品==
「終身未決囚」は[[大川周明]]を思わせる人物の内面を描いたもので、他にも多くの作品で戦争批判が込められている。『遺書配達人』では、分隊で一人生き残った男が、戦後になって残りの兵士の遺書を遺族に手渡すために奔走する物語で、「戦争体験の風化」の告発しようとした。『赤い天使』では、中国戦線での従軍看護婦の異常な経験を描き、『悠久の大義』は一人の将校の死をめぐる推理小説として書かれている。また『巡査の子』は、戦前から戦後に生きた男の波乱に富んだ生涯を描いている。『貴三郎一代』は型破りな初年兵を主役にした[[悪漢小説]]的な作品で、のちに『[[兵隊やくざ]]』の題で[[大映]]で映画化されて大ヒットし、シリーズ化もされ、続編『兵隊やくざ 戦後編』も書かれている。
*「終身未決囚」は[[大川周明]]を思わせる人物の内面を描いたもので、他にも多くの作品で戦争批判が込められている。
 
*[[血友病]]という病気を抱えた男を描く「失脚」や、軍人の子として生きる少年の懐疑を描く「葉山一色海岸」は、生まれながらの運命を抱えた人間をとらえようとして、有馬頼寧の子である自身の境遇の影響が見られ、疎外された人間への注目は「殺意の構成」などにも現れる<ref>平野謙による</ref>。
 
===著作リスト===