「アマビエ」の版間の差分
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天日子尊について読み仮名を「あまひこのみこと」と追記(東京日日新聞記事のルビにあり[長野 2009, 資料, p.24]) |
→アマビコとの類似点: 長野の観察について強化。 |
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== 概要 ==
{{節スタブ|date=2020年3月15日|}}
アマビエは、[[江戸時代]]後期に製作されたとみられる[[瓦版]]に類する刷り物に、絵と文とが記されている。[[肥後国]](現・[[熊本県]])の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間{{efn2|{{Harvnb|長野|
瓦版に[[弘化]]3年[[4月 (旧暦)|4月]]中旬([[1846年]]<ref name="西暦換算01" group="注">[[旧暦]]([[和暦]])の弘化3年4月15日は、[[西暦]]([[グレゴリオ暦]])の1846年5月10日に相当する。</ref>)という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が[[江戸]]に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く」(原文「づの如く」)とのみ記載されており{{sfnp|小野|pp=349-350}}、文章による具体的な特徴の描写は無い。
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{{Quotation|肥後国海中え毎夜光物出ル所之役人行<br />見るニ'''づの如く'''者現ス私ハ海中ニ住'''アマビヱ'''ト申<br />者也当年より六ヶ年之間諸国豊作也併<br />病流行早々私シ写シ人々二見せ候得と<br />申て海中へ入けり右ハ写シ役人より江戸え<br />申来ル写也<br /><br />{{spaces|8}}弘化三年四月中旬<br /><br />[ 図 ]}}<!--【注意】原文の内容を説明する際は研究者による解説や解釈を混ぜ込まないよう注意して下さい。研究者の解釈例が独り歩きしているきらいもあります。また、原文の解説と挿絵の分析は明確に区別すべきところです。-->
'''アマビエ'''についての記録の類は、上記1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されている[[アマビコ]]と呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に[[湯本豪一]]によって指摘されている{{efn2|湯本豪一『明治妖怪新聞』に掲載されたコラム「妖怪『アマピエ』の正体」における誤記説が、アマビエとアマビコの流れのなかに位置づけた最初期の言及である{{sfnp|長野|
== アマビコとの類似点 ==
{{main|アマビコ}}
{{Anchors|尼彦_画像}}[[ファイル:Amabiko.jpg|thumb|'''尼彦'''の肉筆画(明治時代以降のものと考えられている{{sfnp|長野|
[[アマビコ]]と称される妖怪についての図と話は、江戸時代後期から[[明治]]中期にかけての資料(瓦版や[[写本]])や新聞記事などで確認されている。いずれも海中からの出現、豊作や疫病の予言、その姿を写した絵による除災、3本以上の脚部を持つ絵姿、「しばた」(柴田または芝田などと表記される)という姓の目撃者などの共通要素がある{{sfnp|湯本|2005|pp=71-88}}{{sfnp|長野|
肥後国の海に出現したとする資料が最も確認例は多く、アマビエを肥後国に出たとする話もこの影響下にあると考えられる。[[1876年]](明治9年)に「'''尼彦入道'''」あるいは「[[アリエ (妖怪)|アリエ]]」という名で新聞記事に報道されているアマビコに類する絵札の例でも「肥後国青沼郡」や「肥後国青鳥郡」の海に出現したされている(ただし、そのような郡が実在しないことは報道でも指摘されており、当時としても疑わしい話であると見なされていたと考えられる{{sfnp|湯本|2001|pp=174-175}})。ほかに、[[日向国]](現・[[宮崎県]])に出たとされる「尼彦入道」の例も1件ある{{efn2|日向国に出たとされる「尼彦入道」の図は他の「尼彦」や「尼彦入道」の図にくらべると異質なもので、脚も9本足である。}}。{{Anchors|天日子|天日子尊}}[[1875年]](明治8年)に報じられた「'''{{読み仮名|天日子尊|あまひこのみこと}}'''」の例は、海ではなく[[新潟県]][[湯沢町]]の[[田|田んぼ]]に現れたとされる。<ref>『[[東京日日新聞]]」明治8年8月14日号。{{harvp|長野|
アマビコの絵はどの例でも大抵奇妙な姿で描かれているが、アマビエの絵に比べると[[サル|猿]]に似た、毛の生えた獣のような形で描かれることもある{{sfnp|湯本|2005|pp=71-88}}{{sfnp|長野|
{{Anchors|山童_画像}}[[ファイル:Yamawarawa.jpg|thumb|{{center|山童([[早稲田大学坪内博士記念演劇博物館|早稲田大学演劇博物館]]所蔵)}}]]
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'''アマビエ'''は江戸時代に制作された[[瓦版]]の一つとして、1970年代以降に写真図版つきで書籍などでしばしば紹介されており、それらを参考資料にした創作の中で用いられている。
2000年代以降は、湯本豪一による他の同趣向の妖怪やアマビコを中心とした新たな資料紹介{{sfnp|湯本|1999|pp=178-180}}が続き{{sfnp|長野|
[[2020年]]2月から3月にかけて、[[新型コロナウイルス感染症]]に関連して「アマビエの[[イラストレーション|イラスト]]を描く」という行為が広く創作活動の場で注目され、「新型コロナ退散の願いを込めた作品」としてアマビエが様々に創作物で表現される「'''アマビエチャレンジ'''」<ref name=fupo20200311 />が見られる広がりを見せ、大きなイメージの転換として特記できる(「[[#新型コロナウイルスとアマビエ]]」で後述)。
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