「山岡鉄舟」の版間の差分

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相続の明記
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明治18年([[1885年]])には、[[小野派一刀流|一刀流小野宗家]]第9代の小野業雄からも道統と[[瓶割刀]]・[[朱引太刀]]・[[卍]]の印を継承し、[[一刀正伝無刀流]]を開いた。
 
明治20年([[1887年]])[[5月24日]]、功績により[[子爵]]に叙される<ref>『官報』第1169号、明治20年5月25日</ref>。
 
明治21年([[1888年]])7月19日9時15分、[[皇居]]に向かって[[結跏趺坐]]のまま絶命。死因は[[胃癌]]であった。家督及び爵位は長男直記が相続した<ref>『官報』第1561号、明治21年9月10日</ref>。葬儀は22日に行われ、豪雨であった。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。全生庵での会葬者は5千人にも上った。
 
この日、門人村上俊五郎は、[[殉死]]の恐れがあるというので[[四谷警察署]]に保護された。また門人栗津清秀も殉死しようとしたが、全生庵の裏山で発見されて止められた。門人鈴木雄蔵は、葬儀に出たまま家に帰らず、3年間も墓前に留まった。9月15日、門人三神文也が墓前で割腹殉死。同18日、鉄舟の爺や内田三郎兵衛が墓前で死んでいた。「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」と思わせるほどの、鉄舟の死だった。享年53。[[戒名]]「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。没後に勲二等[[旭日重光章]]を追贈された<ref>[{{NDLDC|2944755}}官報 明治21年7月20日付「叙任及辞令」] 国立国会図書館デジタル官報</ref>。