「カール14世ヨハン (スウェーデン王)」の版間の差分

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1780年、ベルナドットは[[フランス王国]]海軍に兵士として入隊した。長い間下士官として軍務についた後、[[フランス革命]]の勃発により急速に昇進を遂げ、1794年には将軍に任命される。[[フランス革命戦争|革命戦争期]]には幾つもの会戦と戦役にて際立った働きを見せ、短期間だが[[ウィーン]]大使や[[国防省 (フランス)|陸軍大臣]]も務めた。1799年の[[ブリュメール18日のクーデター]]でフランスの政権を握った[[ナポレオン]]に対しその後も反対姿勢をとったが、ナポレオンが[[フランス皇帝|皇帝]]に即位した1804年に和解し、[[フランス元帥|帝国元帥]]に任命される。そして[[ナポレオン戦争]]に従軍し[[アウステルリッツの戦い]]や、[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]と[[リューベック]]の追撃戦などで戦功をたてる。また占領地の統治に関しても穏健かつ卓越した手腕を発揮した。しかしながら、ベルナドットとナポレオンの関係は緊張を孕み続けた。
 
1810年、ベルナドットは[[リクスダーゲン|スウェーデン議会]]によってスウェーデン王位継承者に選任される。カール・ヨハンと改名し、老体の[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]に代わって[[摂政王太子]]としてスウェーデンの国政の舵取りを行うようになった。カール・ヨハンが選出された主な理由は、1809年の戦争で[[ロシア帝国|ロシア]]に割譲されたかつての領土[[フィンランド]]の奪還を目的として、フランスとの関係を強化するためであった。しかし、新王太子は[[フィンランド大公国|フィンランド]]の奪還も、その後の維持も不可能であると考え、政策の転換を計った。そして1812年1月にフランス軍によって[[スウェーデン領ポメラニア]]と[[リューゲン島]]が侵略・占領された事を契機として、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[イギリス]]と同盟を結んでナポレオンに対抗する外交方針を採用した。そこでは、ナポレオンに戦いを挑む報酬として[[ノルウェー]](当時はフランスの同盟国[[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]領)を獲得する事で、フィンランドに代わる失地回復を実現する取り決めが成立した。1813年、スウェーデンは[[第6次対仏大同盟]]に参加し、カール・ヨハンは連合国軍北方軍総司令官として[[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]]に参戦した。[[ライプツィヒの戦い]]でナポレオンに対し決定的な勝利を収めた後に[[デンマーク]]を制圧し、1814年1月14日に[[キール条約]]締結によってノルウェースウェーデン国王に割譲されることになる。その後5月17日ノルウェーは独立を宣言し、デンマーク王[[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレゼリク6世]]の従弟クリスチャン・フレゼリク(のちのデンマーク王[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]])が国王に選出されるものの、カール・ヨハンはこれを認めず、軍を率いて屈服させた。8月14日に{{仮リンク|モス条約|en|Convention of Moss}}が締結されて、ノルウェーの自治権と独自の憲法を掲げることを承認した上で、スウェーデンとノルウェーは[[同君連合]]となり、カール13世を君主として推戴した。
 
1818年、カール13世の死去によって、カール・ヨハンは[[スウェーデン=ノルウェー|スウェーデン=ノルウェー連合王国]]の王位につく。対外的には、[[ロシア帝国|ロシア]]、[[イギリス]]という2大国の間に立って緩衝帯の役割を果たすことで[[勢力均衡]]を図ると共に、領土を[[スカンジナビア半島]]という自然国境内に保ち、[[欧州大陸]]のいかなる紛争にも関与しないことで、自国の安全と平和を確保する政策を取る採った。内政面においては経済の改善に注力し、財政の健全化と債務の削減を実現するかたわら、産業の振興、[[イェータ運河]]に代表される[[インフラストラクチャー|インフラ]]や、教育施設・医療機関など社会資本の整備を推進した。このように国内に物質的な豊かさをもたらす一方、1830年代以降、議会改革に関して保守的な姿勢を見せ、改革派としばしば対立した。しかしながらその治世の間、両国は内外とも安定と平和を保っていたため、彼の王朝が深刻な危機に瀕することは無かった。カール・ヨハンが打ち出した政策は、[[武装中立]]、高福祉、高教育など現代にも通じるスウェーデンの近代化の萌芽となる。
 
== 生涯 ==