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歌やラジオ、写真集などでマルチに活躍する声優としては、1990年代の声優ブームにおける風潮を先取りしたと言える{{R|seipre}}。2017年の談話では「俳優が声優の仕事を行い、声優が俳優の仕事を行なうようになって、俳優と声優がボーダレスになる方が自然」という趣旨のコメントを残している{{R|seipre}}。10代のころはまだ声優という単語自体が存在しておらず「俳優が"声の仕事"をする」と言っていた。16歳からアニメの仕事が多くなった背景には、当時10代の声優の絶対数が足りておらず消去法で自分くらいしかいなかったという事情もある。同じく10代のころ、[[OVA]]の販促などのイベントを行うと、当時10代の声優に興味を持つ人自体が希少であったため、イベントには同じファンが来ることが多かった{{R|seipre}}。海外映画の吹き替えを10代のころはよく担当していたが、それは収録日が土日であり学校に通いながら活動するのに好都合であったためであり、収録に関しては当時は劇団こまどりの西村サエ子代表に導かれるがままであったと2017年のインタビューで述懐している{{R|seipre}}。ファンに自身を認知してもらえるようになったきっかけはOVA『BIRTH』の販促イベントであるとのちに話している{{R|seipre}}。1980年代のころから声優活動をしていたため、1990年代の声優業界では姉貴分扱いされることが多かった{{R|seipre}}。
 
劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー{{R|seipre}}。自身が歌手として初めて楽曲をリリースした時点では、声優で歌っていたのは小山茉美くらいであり、当時は声優がアイドル歌手として人気を集めるような時代ではなかった。それだけに声優を担当している自身がファンから応援してもらえたことは冨永本人にとって不思議なことであった{{R|seipre}}。
 
なお、『声優Premeum vol.2』では、劇中歌で歌を披露したことを含めれば『綿の国星』で1曲歌ったのが歌手デビュー{{R|seipre}}としているが、[[#ディスコグラフィ|ディスコグラフィ]]にある通り、10歳の時にリリースした2曲がデビュー曲である。
 
レポーターをやってみたくてオーディションを受けたところ、大橋巨泉事務所の関係者のつてで『[[日野ミッドナイトグラフィティ 走れ!歌謡曲|走れ!歌謡曲]]』に出演させてもらったのは本人にとって良い思い出だという{{R|seipre}}。