削除された内容 追加された内容
m リンク追加
m 曖昧さ回避ページ禁酒法へのリンクを解消、リンク先をアメリカ合衆国における禁酒法に変更(DisamAssist使用)
1,119行目:
優生学者アルフレート・プレーツはカウツキーの社会主義やフェリクス・ダーンの人種主義を融合した『我々の人種の能力と弱者の保護:人種衛生学と社会主義的理想の研究』(1895)において、遺伝子次元での不適切な要素を除去することによって適者生存と社会主義の調和を図り、アーリア人種を保護するための人種衛生学を提唱した<ref>[[#今野元]].p.216-7.</ref>。ただし、ユダヤ人もアーリア起源とした<ref name="p-A-381-405"/>。彼は人種の感覚を鈍らせた原因としてキリスト教と民主主義を批判した<ref name="p-A-381-405"/>。1904年、プレーツは社会学者A・ ノルデンホルツや動物学者L・ プラーテらと世界初の優生学専門誌『人種社会生物学』を創刊し<ref name="sano98"/>、第二次世界大戦前後には攻撃的な生物学思想の主要機関誌となった<ref name="p-A-381-405"/>。1905年、プレーツは人種衛生学会を作り、ヘッケル、[[アウグスト・ヴァイスマン|ヴァイスマン]]、ゴルトンが加わった<ref name="p-A-381-405"/>{{efn2|ポリアコフは[[#ポリアコフ 5|『反ユダヤ主義の歴史』5巻,p395-6]]で、プレーツが反ユダヤ主義者のテオドール・フリッチュや、オーストリアの[[アドルフ・ヨーゼフ・ランツ|ランツ]]を称賛し、1908年にはフリッチュとドイツ再生のための協会を創設したとしているが、解剖学者Gustav Theodor Fritsch(1838 - 1927)と反ユダヤ主義者Emil Theodor Fritsche(1852 - 1933)を間違えている可能性がある。}}。1907年には北方協会(Ring der Norda)を創設した<ref name="p-A-381-405"/><ref>Robert Proctor,Racial Hygiene: Medicine Under the Nazis,Harvard University Press,1990,p.24-6.</ref>。社会学者[[マックス・ヴェーバー]]によって[[1910年]]の第一回社会学者大会へ招待されたプレーツは講演「人種概念と社会概念」で、社会発展の鈍化の原因は社会的弱者の保護政策や生存闘争に基づく自然淘汰の低減にあるとし、民族衛生学的な解決策として性的淘汰によって劣悪な遺伝子の継承を防ぐこと、そして究極的な解決策として生殖細胞の淘汰による劣等生殖細胞の消滅(後の[[遺伝子操作]])を提唱した<ref name="sano98"/>。ヴェーバーはプレーツの人種概念が曖昧であり<ref name="konno">[[#今野元]]</ref>、民族生物学固有の問題の実質的な限界を踏みはずしてはならないと批判した<ref name="sano98"/>。ただし、ヴェーバーも黒人やインディアンにも知的な上層部がいるが白人種と混血が多く、また知的に未熟な黒人を「半猿ども」と表すように白人種の優越を認める一方で、外見が白人なのに黒人との混血を重視するアメリカ人を批判した<ref name="konno"/>。またヴェーバーは「職業としての学問」(1917)では重態の患者や精神障害者の家族が安楽死を嘆願した場合でも医師は患者の命を保持しようとするが、「生命が保持に値するかどうか」は医学の問うところではないとした<ref name="sano98"/>。
 
1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた<ref name="p-A-381-405"/>。アメリカでは優生学者[[チャールズ・ダベンポート|ダベンポート]]が[[1911年]]には『人種改良学』を発表した<ref>Heredity in Relation to Eugenics.『人種改良学』大日本文明協会事務所 (1914)</ref>。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で[[断種法]]が制定され、移民排斥法や[[アメリカ合衆国における禁酒法|禁酒法]]などにも影響が見られた<ref name="sano98"/>。
 
=== ワーグナーと反ユダヤ主義 ===