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==歴史==
[[江戸時代]]には座興で打たれる碁のような場合を除き、基本的にコミというものはなかった。当時は棋士の数が少なかったこともあり、個人対個人で複数回の対戦([[番勝負|番碁]])などを行い、[[囲碁の手合割|手合割]]を決めていた。[[連碁]]などでコミが採用される場合には先番5目コミ出しのケースが多かったことから、当時から先番の有利さはこの程度と見られていたことがわかる。[[1837年]]に打たれた[[本因坊秀和|土屋秀和]]・竹川弥三郎(先番五目コミ)対[[太田雄蔵]]・[[服部正徹]]の連碁はコミ5目で打たれており、これが記録に残る初のコミ碁である<ref>https://go.tengudo.jp/knowledge/q33-36</ref>
 
大正から昭和に入って棋士の数も増え、また[[挑戦手合制]]が碁界の主流を占めるようになるにつれ、一番で勝負を決める必要性が生じてきた。このためコミの必要性が議論されたが、「勝負の純粋性を損なう」として反対意見も強かった。[[本因坊|本因坊戦]]の開催に当たって4目半のコミが導入された時には抵抗する棋士も多く、[[加藤信]]などは「コミ碁は碁に非ず」という趣旨の自らの論説を主催紙の[[毎日新聞]]に載せることを参加の条件としたほどだった(なお加藤はコミ碁の本因坊戦で活躍し、1939年から始まった[[第1期本因坊戦]]では初代実力制本因坊の座を[[関山利一]]と争った)。