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父アンソニーは船を所有する船乗りで、北海貿易で富を得ていた。ヤン・ファン・リーベック自身は20歳で外科医となり、助手として東インド会社付船中医。[[バタヴィア]]の外科医の助手などを務めた後、1639年に[[オランダ東インド会社]]に加わり、1638年、バタフィア([[ジャカルタ]])に赴任してからは商社マンとなる。
 
1642年には、商業リサーチの仕事で[[長崎市|長崎]][[出島]]に派遣される。ヴェトナムの[[トンキン]]での絹貿易に従事する貿易の責任者も務めたが、私貿易と不正蓄財により、その職を解任された。1645年一時帰国する。
 
1651年に、南アフリカにオランダ入植地の建設を命じられ、オランダの東インド会社のケープタウン補給基地建設の指導官として再び海外へ派遣される。1652年4月6日に後のケープタウンの地に3隻の船舶、DrommedarisとReijgerとGoede Hoopを率いて上陸し、東インドとオランダの貿易航路の中継地を作った。