「藤原道長」の版間の差分

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=== 三条天皇との対立 ===
三条天皇は東宮に4歳の敦成親王を立てた。[[長和]]元年([[1012年]])1月、三男・[[藤原顕信|顕信]]の突然の出家に衝撃を受けている。同年2月、道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の[[藤原妍子|妍子]]を皇后(号は中宮)とした。当初、天皇は道長に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任した。道長は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后超子を失い成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は[[親政]]を望んだ。妍子が生んだのが皇子ではなく女子の[[禎子内親王]]を生んったこともあり、天皇との関係は次第に悪化していった。
 
天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御[[藤原娍子|娍子]]([[藤原済時]]の娘)が第一皇子[[敦明親王]]始め多くの皇子女を生んでおり、天皇は娍子も皇后(号は皇后宮)に立てることとした。ところが立后の儀式の日を道長は妍子の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしなかった。実資が病身をおして意を決して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった<ref group="注釈">天皇は娍子に后妃となる資格を与えるために父の済時に右大臣を贈官し、妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始される日程が組まれていた(実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった)。だが、道長の威勢を恐れた右大臣[[藤原顕光]]と内大臣[[藤原公季]]は本宮の儀を欠席し、これを見た公卿・殿上人も多くが欠席したと言われている。</ref>。