藤原道長

日本の平安時代の貴族、公卿

藤原 道長(ふじわら の みちなが、康保3年(966年)- 万寿4年12月4日1028年1月3日))は、平安時代中期の公卿藤原北家摂政関白太政大臣藤原兼家の五男。後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇の三帝の外祖父

 
藤原 道長
時代 平安時代中期
生誕 康保3年(966年
死没 万寿4年12月4日1028年1月3日
官位 従一位摂政太政大臣准三后
主君 円融天皇花山天皇一条天皇三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家九条系御堂流
父母 父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟 道隆超子道綱、道綱母養女、道兼詮子道義道長綏子兼俊
鷹司殿源雅信娘)、高松殿源高明娘)、源簾子(源扶義娘)、源重光娘、儼子藤原為光娘)、藤原穠子
彰子頼通頼宗妍子顕信能信教通 寛子威子尊子長家嬉子長信
特記
事項
従五位下への叙爵元服とみなし、主君は元服時の天皇からとしている。
後一条後朱雀後冷泉天皇の外祖父
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概要 編集

関白藤原兼家の息子に生まれるが、道隆道兼という有力な兄に隠れ、一条朝前半まではさほど目立たない存在だった。しかし、兼家の死後に摂関を継いだ兄たちが相次いで病没すると、道隆の嫡男伊周との政争に勝って政権を掌握。さらに、長徳2年(995年長徳の変で伊周を失脚させ、左大臣に昇った。

一条天皇には長女の彰子を入内させ皇后に立てる。次代の三条天皇には次女の妍子中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じ、天皇の眼病を理由に退位に追い込んだ。長和5年(1016年)彰子の産んだ後一条天皇即位により天皇外祖父として摂政となる。早くも翌年には摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固めるも、引き続き実権を握り続けた。寛仁2年(1018年)後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三」(一家三后)と驚嘆された。藤原氏摂関政治の最盛期を築き、この頃に権力の絶頂にあった道長は、有名な望月の歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」を詠んでいる。

寛仁3年(1019年出家するが、当時の貴族として厚く仏教帰依しており、晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けた。晩年は糖尿病を病み、万寿4年(1027年)薨逝。没後、彰子所生の後朱雀天皇、六女の嬉子所生の後冷泉天皇が相次いで即位し、道長は三代の天皇の外祖父となっている。

経歴 編集

生い立ち 編集

村上朝末の康保3年(966年摂関家の流れを汲む、藤原兼家の五男として生まれる。村上朝の実力者であった祖父の右大臣藤原師輔九条流の祖)は既に天徳4年(960年)に没しており、師輔の兄にあたる藤原実頼小野宮流の祖)が左大臣として太政官の首班に立っていた。

道長の母は摂津守藤原中正の娘である時姫。兼家は色好みで多数の妻妾を抱えていたが、時姫は道隆道兼超子詮子・道長の三男二女を産んでおり、正室として扱われていたとみられる。幼少期、道長は中正の家で過ごしたと想定されるが、どのように育ったかは全くわからない。中正の父は才識に富む能吏として清和朝から光孝朝にかけて活躍し中納言に昇った藤原山蔭。山蔭の学問を疎かにしない家風が保たれていたと思われる中正の家で、道長の人並み以上の才学が培われたか。なお、長兄の道隆は13歳年上であったため中正の家で一緒に過ごした期間は短かったはずだが、5歳上の道兼や4歳上の詮子とはある程度の期間一緒に暮らしていたと想定される[1]

円融朝初頭の天禄元年(970年摂政太政大臣に昇っていた藤原実頼が没すると、摂関は円融天皇外戚である九条流に移り、師輔長男の藤原伊尹が摂政を継ぐ。しかし、わずか2年後の天禄3年(972年)伊尹は急死。後継を次男・兼通と三男・兼家が争うが、結局兼通に関白が宣下された。兼通と兼家は不仲で、兼家は不遇の時期を過ごすことになる。貞元2年(977年)には兼通は死期が迫る中で、関白を天皇と外戚関係のない小野宮流の藤原頼忠に譲り、兼家の右近衛大将の兼官を解いて格下の治部卿に落とした。この際、兼家の子息である道隆・道兼も武官を解かれて地方官に左遷されているが、道長はまだ幼少であったため、父の不遇期における官途上の悪影響を最小限に逃れている。なお、翌天元元年(978年)頼忠によって兼家は右大臣に引き上げられ、ようやく不遇の時期を脱した。

青年期 編集

天元3年(980年)道長は従五位下に初叙。天元6年(983年侍従永観2年(984年)2月に右兵衛権佐に任ぜられる。

同年6月に円融天皇は花山天皇冷泉天皇の皇子)に譲位し、春宮には円融天皇の女御となっていた詮子所生の懐仁親王が立てられた。花山朝に入ると、天皇の外叔父である若い藤原義懐が急速に台頭。践祚に伴い蔵人頭に補せられると、早くも翌永観3年(985年)には従二位権中納言に進む。義懐は政治を領導するようになると、荘園整理貨幣流通の活性化など革新的な政策を進め、関白・藤原頼忠らとの確執を招いた。

寛和2年(986年)既に58歳になっていた藤原兼家は外孫・懐仁親王の早期の即位を望んで、前年に女御・藤原忯子を喪って悲嘆に暮れていた花山天皇の退位を画策。兼家は三男の蔵人左少弁・道兼に花山天皇を唆させて内裏から連れ出し出家・退位させてしまった。この際に、道長は天皇の失踪を関白・頼忠に報告する役割を果たしている(寛和の変)。

花山天皇出家の翌日には直ちに幼い懐仁親王が践祚し(一条天皇)、兼家は外祖父として摂政に任じられる。執政の座に就いた兼家は息子らを急速に昇進させ、道長も同年中に三度の叙位を受けて従四位下左近衛少将に、翌永延元年(987年)9月には従三位に叙せられ公卿に列した。

同年暮れに、道長は2歳年上で当時の左大臣・源雅信の娘である倫子結婚する。道長の兄・道綱が同じく雅信の娘と結婚していたことから、道長の倫子への求婚は道綱からの影響を受けたものである可能性もある[2]。また、雅信は倫子を入内させる意向を持っていたため、当初は道長からの求婚を聞き入れようとしなかったが、倫子の母・藤原穆子が道長の将来性を買ってこの結婚の話を進めたとの話も伝わっている[3]。一方で、雅信が倫子を入内させる気があれば年齢的に円融天皇に入内させても不自然ではないのにこの時までどの天皇にも入内させていないことや道綱の妻になった女性が倫子の妹とみられることから、そもそも入内の話が『栄花物語』の創作と考え[注釈 1]、兼家と雅信の合意による政略結婚の可能性もあるとする研究者もいる[4]。道長は祖父の師輔や父の兼家の若い頃のように受領の娘を選ばず、いつかめぐってくるであろう摂関の地位に就く機会に備え、自らの運命を大きく切り開くために源氏の名門に賭け、父の摂政就任を経て自らの公卿昇進を求婚の好機として選んだ[5]。翌永延2年(988年)には早くも長女の彰子が雅信の土御門殿で誕生している。

また、同年には安和の変で失脚した故左大臣・源高明の娘である明子も妻とした。明子は高明の没後、まず盛明親王の養女となるが、のち藤原詮子に引き取られ厚く庇護されていた。明子に対して、道隆・道兼が詮子を訪ねては言い寄ろうとしたが、詮子はこれを聞き入れず、道長に機会を与えたとの逸話がある[6]。この逸話の真実性は定かではないが、道長が詮子を介して明子に近づいたことが想定される。道長が明子を選んだ理由については、身分的高貴さは当然ながら、舅の高明は既に10年前に没していたことから政治的要素は少ないと思われること、姉によって愛護されている身近な存在であったことを踏まえると、多少の恋愛的要素が含まれていた可能性がある。そのころ読まれた物語に登場する薄幸に耐えて生きる美姫というのが、道長の明子に対するイメージであったかもしれない[7]。なお、研究者の中には嫡妻である倫子を重んじるために、『栄花物語』では道長と倫子が先に結婚したように記しているが、実際には明子との結婚の方が倫子よりも先、すなわち永延元年の春のことであったとする説を唱える研究者もいる[8]

道長も当時の貴族の常として多くの妻を持っていたが、倫子が二男四女、明子は四男二女と多数の子女を儲けるなど、この二人が道長の家庭の中枢を担っていく[9]。ただ、道長は倫子とはほとんど毎日行動を共にしていたらしい一方で、明子とは時々しか会っていなかったと見られ、倫子は嫡妻で、明子は妾妻であった[10]

永延2年(988年)正月に、道長は参議を経ずに権中納言に昇進した。以後、摂関家の当主・嫡子は、近衛中将・少将から非参議の三位となり、参議を経ずに中納言となるのが常例となった[11]

伊周との争い 編集

正暦元年(990年)正月に正三位に叙せられる。5月に兼家は病気のため出家し(7月に薨去)、長男の道隆が摂関を継いだ。道隆は摂関の地位に就くと子女を宮廷・政界に急速に進出させ始める。同年10月に父・兼家の喪中にもかかわらず、長女の定子を前代未聞の四后並立[12]として世の反感を買いながら一条天皇の中宮に立后。この強引な行為に対して、藤原実資は「驚奇少なからず」[13]「皇后四人の例、往古聞かざる事也」[14]と記した。ここで、道長は中宮大夫に任ぜられるが、喪中の件と強引な道隆のやり方を良しとせずに敢えて中宮定子のもとに参らず、世間から気丈なことであると賞賛されている[3]。道長は、正暦2年(991年権大納言、正暦3年(992年従二位に叙任される。しかし、道隆は嫡男の伊周を後継者に擬して強引に昇進させていき、正暦5年(994年)には道長を凌いで弱冠21歳で内大臣に引き上げた。藤原実資はこれに対しても「父の権力への執着の現れ」と断じている[15]

同年冬頃から道隆は飲水病(糖尿病)により体調を崩し、長徳元年(995年)に入っても体調は回復しなかった。2月に辞表を提出し、3月には道隆が病気の間に限って伊周に政府文書の内覧を行わせる旨の宣旨が出される。4月に入って道隆は重態となり没した。当時、平安京では赤斑瘡(はしか)が猛威を振るっており、死因はこの罹患による可能性もある[16]。半月ほどの摂関不在を経て、次弟の右大臣・藤原道兼が関白を継ぐも、就任僅か数日で疫病に倒れ「七日関白」と呼ばれた。なお、この間に道長は左近衛大将を兼ねているが、道兼の意向によるものと想定される[17]

道兼の没後わずか3日にして権大納言であった道長に内覧の宣旨が下る。道兼の後継選定に当たっては、伊周は自らが摂関たらんと欲し、一条天皇の意中も伊周にあった。これは道隆の没後に後ろ盾を失った定子への配慮でもあり、文才豊かな伊周とも親しかったためと想定される[18]。一方、道長は伊周が政治を行えば天下が乱れると考え、自らが後継になろうとした。一条天皇の母后・東三条院(詮子)はかねてより兄弟たちの中で特に道長に目をかけていたため、道隆や伊周との関係が悪かった上に、道兼の死後は弟の道長が関白になるのが道理であると道長を強く推す。さらには、なかなか聞き入れない一条天皇の寝所にまで押しかけて膝詰めで涙を流して訴えかけると、遂に天皇も院の執拗な説得に折れて道長の内覧宣旨を下した。また、道長は東三条院の局で天皇と女院の協議の結果を待っていたが、非常に長い時間、女院が天皇の寝所から出てこないため、だめかもしれないと緊張していた。ようやく出てきた女院は、顔は泣きはらしていたが、口元は満足げに微笑んで「あはや宣旨下りぬ(ああやっと、内覧宣旨が下りました)」と言ったという逸話がある[6]

6月に入ると道長は伊周を超えて右大臣に昇るが、摂関には就かず内覧に留まった。以下の通り、伊周との抗争が続いており、道長は摂関になり得なかったと想定される[19]

  • 7月24日:陣座で道長と伊周が諸公卿を前に激しく口論[20]
  • 7月27日:道長と伊周の弟・隆家の従者が七条大路で集団乱闘[21]
  • 8月2日:隆家の従者が道長の随身を殺害。道長は下手人を出さない限り、隆家の参内停止を要求。
  • 8月10日:伊周の外祖父・高階成忠が、陰陽師法師を邸宅に招いて道長を呪詛させる[22]

長徳の変 編集

道長と伊周ら中関白家との対立が深まる中、長徳2年(996年)正月に隆家が女性関係が原因で花山法皇に矢を射かける事件を引き起こす[23]。矢は法皇の袖を貫き[24]、一説ではその後、家人・従者による乱闘が発生し、法皇の童子2人が殺害されたともされる[25]。2月に入ると、陣定が行われ、伊周・隆家の罪科を決めるために明法博士に罪名を勘申させよとの勅が道長に伝えられた[26]。ちょうどその頃、東三条院が御悩となり3月末に大赦が行われるが、女院の御悩は呪詛が原因とのが広まり、女院の寝殿の下から厭物(呪いの人形)が掘り出されるとの噂まで出る[27]。さらに、4月に入ると伊周が大元帥法(臣下がこの法を修めることは禁じられている)を行っているとの法琳寺からの密告があり、伊周らに対する処罰は避けられない状況となった。4月末になって、花山法皇を射る事、女院を呪詛せる事、私に大元法を行なう事、の3つの罪状により、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守左遷する宣命が出されて失脚した[28]長徳の変)。また、この変のいざこざの中で、中宮・藤原定子も落飾している[29]

道長は花山院事件の直後には、伊周・隆家の罪科について陣座に付議したが、すぐに懲罰を行わなかった。じっくりと断罪の根拠を固め、東三条院への呪詛・大元帥法の修法という伊周に不利となる情勢も合わせて、恐らく左遷の除目の直前に、一条天皇に内情を奏上して決断を迫ったと推測される。挙げられた罪状はいずれも不敬としかいいようのない行為であり、中関白家と関係が深く好意的であった一条天皇も、さすがに道長の提案を退けることはできなかった[30]

この変を通じて、道長は中関白家に不可逆的なダメージを与えて権力を確立。一方で、一条天皇は立場をひどく悪化させることになった。好意を持っていた中関白家の人々が断罪され、信頼する後ろ盾を失っただけでなく、道長はもとより公卿集団に対して非常に具合の悪いことになってしまった。そのため、一条天皇は今までよりもいっそう道長を恐れ憚らなくてはならない状況に陥った[30]

7月には道長は左大臣に昇進し名実ともに廟堂の第一人者となる。次席の右大臣には兼通の子の顕光が任じられたが、顕光は無能者と軽んじられている人物だった。長徳3年(997年)4月に東三条院の御悩による大赦が再度行われて伊周・隆家の召還が決まり[31]、4月中に隆家が、12月に伊周が帰京[32]。また、6月には落飾していた定子が再び参内している[33]

一条天皇と道長 編集

関白・藤原道兼の没後、一条天皇は道長に対して関白ではなく内覧の宣旨のみを与えた。これは伊周への配慮であると同時に、道長が未だに権大納言でしかなく、大臣の地位に無かったために関白の資格に欠けていた事情もあった。だが、まもなく右大臣・藤原氏長者に補されたにもかかわらず、道長は依然として関白に就任せず、内覧と一上の資格を有した右大臣(後に左大臣)の地位に留まり続けている。

関白の職権そのものには決裁権がなく、あくまでも最高決裁権者である天皇の後見的存在であった。このため、天皇との関係次第によってその権限は左右される性質のものであった(現に道長と三条天皇とは疎遠であった)。また、公式な政府の最高機関である太政官に対しては、摂政・関白は大臣兼任であったとしても関与出来ない決まりであった(道長の息子はまだ若く、大臣に就任して道長の立場を代理することはできなかった)。そこで道長は自らの孫が天皇に即位して外祖父となるまでは摂政・関白には就かず、太政官の事実上の首席である左大臣(一上)として公事の執行にあたると同時に関白に近い権限を持つ内覧を兼任することによって最高権力を行使しようとしたとみられる[34]

当時、一条天皇の後宮には中宮・藤原定子のほか、藤原義子藤原公季の娘)・藤原元子(藤原顕光の娘)が女御として入内していた。しかし、定子が出家していたこともあり、近親による皇子の誕生を望んだ道長は、長徳4年(998年)2月に兄の道兼の娘である尊子御匣殿別当として入内させている[35]

まもなく道長は重い腰病を患い、3月に天皇に対して再三に亘って辞官を請い、その中で出家の志にも触れるが、許されなかった[36]。その後、病状はやや回復し出家には至らなかったが、数ヶ月は病気がちで政務に倦んでいた様子が窺われる[37]。冬に入って、道長はようやく健康を取り戻したらしいが、ほとんど政治の指導に当たらず、辞官のことに関わっては宇治の山荘に遊覧して心の憂さを晴らすといった状態であった[38]。時にはあくどくも権力・栄華を追求した道長が、官職を捨てて出家を願う様子は不思議にも思えるが、それこそが道長の性格の弱さ・脆さであるとの指摘がある[37]

道長の首席の大臣としての職務の中に、除目の際に儀式を執り行って決定した人事を大間書に記載する執筆の職務がある。しかし、道長は長保2年(998年)の秋の除目の執筆を病後を理由に辞退して次席の右大臣・藤原顕光を譲り、その後も除目の際に障りがあるとして度々出席の辞退を申し入れるようになった。これに対して一条天皇は、道長に除目への奉仕を厳命し、どうしても不都合ならば除目の日程の方を変えるように命じている[39]。これは関白の不在という状況に自ら積極的に政務を遂行する意思を見せる天皇に対し、道長が不満を抱いていた可能性も指摘されている。なお、寛弘5年(1008年)彰子に皇子が生まれて以降、道長は除目の執筆を滞りなく行うようになっている[40]

彰子の入内と立后 編集

長保元年(999年)2月に道長の長女・彰子裳着を行い、従三位の叙位を受けるなど、道長は彰子の入内の準備を進める[41]。またこの頃、定子が再び懐妊するが、これを知った道長はかなり複雑な心境になったと想定される。将来の天皇の外戚たらんと、定子の出産前に彰子の入内を急がせたい一方で、彰子の年齢を考えるとすぐの皇子誕生は期待できないため、この段階では九条家(特に兼家流)のために、定子が皇子を産むことを期待していたとみられる[42]。8月になると、定子は出産のために宮中を出て前但馬守平生昌の邸宅に移る。しかしこの日に、道長は多くの公卿らを伴って宇治の別荘で遊覧を催し、行啓を妨害している[43]

9月頃より彰子の入内の具体的な準備が始まる[44]。入内にあたっては豪華な調度品が用意され、その中には参議・源俊賢を介して公卿たちから和歌を募り、能書家藤原行成が色紙形に筆を入れた四尺の屏風もあり、これには花山法皇までもが積極的に御製を贈った。この際、公卿たちの中で唯ひとり中納言・藤原実資だけは「上達部左府の命に依り和歌を献ずるは、往古聞かざる事也」と批判して[45]、道長から直接催促を受けるも和歌の献上を頑として拒む[46]。実資は小野宮流有職故実の継承者で当時では一流の学識者であり、権勢におもねらず筋を通す態度を貫いた。

11月7日に彰子は入内するが、偶然同じ日に定子が第一皇子・敦康親王を産む。皇子の誕生と同日に彰子の入内が行われたため、道長が敦康親王の誕生を快く思っていなかったと見る向きもある一方で、道長は兼家流から皇子が産まれたことを喜んでいた逸話も伝わっている[47]

翌長保2年(1000年)2月に道長は彰子を皇后(号は中宮)とした。先立の后に定子がいたが、定子は一度出家しており中宮職は行えず、一帝二后が成立。先例がない[注釈 2]ことであったが、定子立后時の四后を先例とし、また東三条院の後援と蔵人頭・藤原行成の論理武装[注釈 3]が、一条天皇や公卿らから広く納得を得る上での大きな手助けとなった。

  • 現在の藤原氏出身の后妃は、東三条院(藤原詮子)・皇太后(藤原遵子)・中宮(藤原定子)と何れも出家しており神事を勤めない。
  • 后位に対する納物には神事に用いるべき公費が含まれているが、神事が行われず全て私用に費やされている。
  • 藤原氏出身の皇后が所掌する大原野祭について、現在は氏長者・藤原道長が代行しているが、これも神の本意に叶わぬ「神事違例」で、行成自身も藤原氏の末葉の身として氏の祭のことを心配している。
  • 諸司(神祇官陰陽寮か)より「神事違例」の卜占が出ている。
  • 既に永祚年間に二后並立の前例がある(円融皇后・藤原遵子と一条中宮・藤原定子)。
  • 中宮(藤原定子)は正妃であるが、既に出家して神事を勤めず、(天皇の)私恩によって職号を止めず封戸も納めている。従って重ねて彰子を皇后に立て神事を掌るようにさせるのがよいのではないか。

同年12月に定子は第二皇女・媄子内親王を出産後まもなく没す[48]。これにより一帝二后状態は1年足らずで解消され、彰子は一条天皇の唯一の后となった。

伊周との和解 編集

同年5月に道長は伊周の復位について奏上を行ったものの、一条天皇からは異常な奏上として取り上げられなかった[49]

長保3年(1001年)8月に敦康親王が彰子の御局に渡り[50]、そこで敦康の魚味始(生後初めて魚を食べさせる儀式)が行われるなど[51]、彰子が敦康の養母となった様子が窺われる[52][53]。これは、蔵人頭藤原行成の献策を受けた一条天皇の意向によるものだが、娘の彰子が未だ皇子誕生を見ない道長にととっても受け入れられるものであった。

10月に道長は一条天皇を土御門殿に迎えて東三条院の四十の賀を開催[54]。かねてより東三条院は病気がちであったが、賀ののちも体調は優れず、同年閏12月に出家後まもなく没した[55]。なお、死に際した東三条院からの勧めに従い、道長は伊周を本位の正三位に復している[56]

当時、道長は敦康親王に期待するところが大きく、以下のように親身に後見を行った[57]

  • 長保4年(1002年)6月:敦康は一条院内裏から道長の土御門邸に渡る。のち、内裏に戻るために方違で大蔵卿藤原正光邸に赴いた際、道長が車に陪乗。再度の参内にあたって、道長は野釼一腰を贈った[58]
  • 長保5年(1003年)3月:敦康が賀茂の河原で上巳の祓いを行った際、道長が車に陪乗[59]
  • 寛弘元年(1004年)9月:敦康の参内に際して祓いが行われた際、道長は近侍[60]
  • 寛弘2年(1005年)3月:一条天皇と敦康の初めての対面の儀について、道長は別記を残す[61]
  • 寛弘2年(1005年)5月:敦康の御悩を聞いて、道長は参内し候宿[62]
  • 寛弘2年(1005年)10月:敦康が石山寺に参詣した際、道長は妻・倫子を連れて扈従[63]

またこの間、道長は以下の通り伊周の復権も進めた[32]。これは伊周の復権を望む一条天皇からの働きかけもあったと想定されるが、旧敵であった伊周を自らの羽翼のもとに包容しようとした、道長の強気一点張りではない性格が窺われる[64]

  • 長保5年(1003年)9月:従二位への叙位。
  • 寛弘2年(1005年)2月:宮中での席次を大臣の下で大納言の上と定める。
  • 寛弘2年(1005年)11月:朝儀へ参加する旨の宣旨。

外孫・敦成親王の誕生と一条天皇の譲位 編集

寛弘5年(1008年)9月、入内後10年目にして彰子は土御門殿において皇子・敦成親王を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王も生まれた。待望の孫皇子が誕生した時の道長の狂喜ぶりは『紫式部日記』に詳しい。なお、敦成親王が誕生したときに、一条天皇は道長に従一位へ進める意向を示したが、道長本人は加階を辞退して妻子や家司の叙位を求めた。その結果、道長と同じ正二位であった妻の倫子が先に従一位に叙され、以降10年余りにわたってその状態が続くことになる[65]

寛弘8年(1011年)6月、病床に臥した一条天皇は東宮居貞親王(冷泉天皇の皇子)に譲位し、剃髪出家した後に崩御した。一条天皇と道長・彰子は信頼関係にあった[66]。その一方で後世の記録で『古事談』や『愚管抄』には、道長・彰子が天皇の遺品を整理している際、「王が正しい政を欲するのに、讒臣一族が国を乱してしまう」という天皇の手書を見つけ、道長が怒って破り捨てたという逸話が記載されているが、平安同時期の書物には一切みられず信憑性は薄い。

同時代の記録である藤原行成の日記『権記』には、一条天皇が死の直前に側近の行成に定子が生んだ敦康親王の次期東宮擁立の相談を行ったが、行成が天皇に、道長の外孫である彰子が生んだ敦成親王の次期東宮擁立を認めさせたという経緯や、その一方で彰子自身も一条天皇の意を尊重して、定子亡き後、我が子同然に養育した敦康親王の次期東宮擁立を望んでいたが、父道長がそれを差し置いて敦成親王の立太子を後押しした事を怨んだと言う経緯等が記述されている。

三条天皇との対立 編集

三条天皇は東宮に4歳の敦成親王を立てた。長和元年(1012年)1月、三男・顕信の突然の出家に衝撃を受けている。同年2月、道長は東宮時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子を皇后(号は中宮)とした。当初、天皇は道長に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任した。道長は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后超子を失い成人してから即位した天皇と道長の連帯意識は薄く、天皇は親政を望んだ。妍子が禎子内親王を生んだこともあり、天皇との関係は次第に悪化していった。

天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御娍子藤原済時の娘)が第一皇子敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、天皇は娍子も皇后(号は皇后宮)に立てることとした。ところが立后の儀式の日を道長は妍子の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしなかった。実資が病身をおして意を決して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった[注釈 4]。 翌年の娍子参内の行賞として娍子の兄の通任を叙任しようとした際に、道長は本来は長年娍子の後見をしたのは長兄の為任であるとして通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判して、最終的に為任を昇進させた。

三条天皇と道長との確執から政務が渋滞し、大勢は道長に有利であった。これに対して三条天皇は密かに実資を頼りとする意を伝えるが、実資も物事の筋は通すが権勢家の道長と正面から対抗しようとはしなかった。孤立した天皇は長和3年(1014年)、失明寸前の眼病にかかり、いよいよ政務に支障が出てこれを理由に道長はしばしば譲位を迫った。道長が敦成親王の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王の東宮を望んでいるのは明らかで、天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。

長和4年(1015年)10月、譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬことを詔する。11月、新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。これを理由に道長はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子敦明親王を東宮とすることを条件に譲位を認めた。

長和5年(1016年)正月、三条天皇は譲位し、東宮敦成親王が即位した(後一条天皇)。道長は摂政の宣下を受けた。東宮には約束通り、敦明親王が立てられる。だが、敦明親王と道長には外戚関係がなく、母の娍子の生家は後ろ盾にならず親王の舅は右大臣顕光だが、人望がなくまるで頼りにならなかった。この年の7月、土御門殿が火災で焼失する。諸国の受領は道長の好意を得るために1間ごとに分担して資財をもってその再建に尽くした。特に伊予守であった源頼光は建物の他に道長一家に必要な生活用品全てを献上した。受領に私邸を造らせ、あたかも主君のように振舞う道長の様には政敵であった藤原実資でさえ太伯の故事を引用しながら、「当時太閤徳如帝王、世之興亡只在我心(今の太閤(=道長)の徳は帝王のようで、世の興亡はその思いのままである)」と評している[67][注釈 5]。その一方で、前年に焼失した内裏の再建は土御門殿の再建を優先する受領たちによって疎かにされ、実資を嘆かせている[68]

晩年 編集

 
法成寺址(京都市上京区荒神口通寺町東入北側)

寛仁元年(1017年)3月、道長は摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲り、後継体制を固めた。5月に三条上皇が崩御すると、それから程ない8月、敦明親王は自ら東宮辞退を申し出た。道長は敦明親王を准太上天皇とし(院号は小一条院)、さらに娘の寛子を嫁させ優遇した。東宮には道長の望み通りに敦良親王が立てられる。12月、従一位太政大臣に任じられ位人臣を極めるが、程なくこれを辞した(道長が太政大臣に任じられたのは、翌寛仁2年正月に行われた後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕するためである。天皇の元服の際には太政大臣が加冠を務める例であった)。一応、政治から退いた形になるがその後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。頼通や一上である藤原実資も重大な案件に関しては出家後も道長に判断を仰いでいるが、道長の意見が摂関や太政官の方針に異論を挟んだ場合でも頼通らが必ずしもその意見には従っていない。引退後の道長は強力な影響力を持っていたものの、宮廷の政策決定の枠から外れているために在任中のような絶対的な権力は持っていなかったとみられる[69]

寛仁2年(1018年)3月、後一条天皇が11歳になった時、道長は三女の威子を女御として入内させ、10月には中宮となした。実資はその日記『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と感嘆の言葉を記した。威子の立后の日(10月16日11月26日))に道長の邸宅で諸公卿を集めて祝宴が開かれ、道長は実資に向かって即興の歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば[70](「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」というふうに解されている[注釈 6]。)を詠んだ[72]。実資は丁重に返歌を断り、代わりに一同が和してこの「名歌」を詠ずることを提案し、公卿一同が繰り返し何度も詠った。この歌は道長の日記『御堂関白記』の、この宴会についての記述の中には記されていないが、道長に批判的な実資の日記[注釈 8]に書き残されて後世に伝えられることになった。

寛仁3年(1019年)3月、病[注釈 9]となり剃髪して出家する。半年後に東大寺受戒された。法名は行観(後に行覚)。

寛仁5年(1021年)、道長の末女・嬉子も将来の皇妃となるべく尚侍となり、東宮敦良親王に入侍したが、嬉子は親仁親王を産んで万寿2年(1025年)に早世した。

晩年は法成寺の創建に心血を注ぎこみ、造営には資財と人力が注ぎ込まれ、諸国の受領は官へ納入を後回しにしても、権門の道長のために争ってこの造営事業に奉仕した。更に道長は公卿や僧侶、民衆に対しても役負担を命じた。道長はこの造営を通じて彼らに自らの権威を知らしめると同時に、当時の末法思想の広がりの中で「極楽往生」を願う彼らに仏への結縁の機会を与えるという硬軟両面の意図を有していた[注釈 10]。『栄花物語』は道長の栄耀栄華の極みとしての法成寺の壮麗さを伝えている。道長はこの法成寺に住んだが、寛子・嬉子・顕信・妍子と多くの子供たちに先立たれ、病気がちで安らかとはいえなかった。

万寿4年12月4日(1028年1月3日)、病没。享年62。死の数日前から背中に腫れ物ができ、苦しんだとされ、または、持病の糖尿病が原因の感染症ではないかといわれている。死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわった。僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれている。道長の亡骸は12月7日に鳥辺野にて火葬に付され、遺骨は他の藤原北家の人々と同様に現在の京都府宇治市木幡の「宇治陵」と称される墓地群に葬られた。生前の道長は一族の菩提を弔うために現地に浄妙寺という寺院を創建していた。しかし、浄妙寺は中世末期には廃絶し、宇治陵も現在では一部を除いて住宅街や茶畑と化してしまい、道長を含めたほとんどの人々の葬地は不明となっている[注釈 11]

道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家九清華のうち三家(花山院大炊御門醍醐)を輩出した。その一方で頼通の異母弟・能信は摂関家に疎んじられた即位前の後三条天皇をほぼ独力で庇護し、それが摂関政治の凋落・院政へと繋がっていく。長家からは御子左家として俊成定家らが出て、冷泉家として今日まで続く。

国宝・御堂関白記 編集

 
御堂関白記の一部

道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と呼ばれ、自筆本14巻、書写本12巻が京都陽明文庫に保存されている。誤字・当て字が随所に散らばり、罵言も喜悦の言葉も素直に記してある。当時の政治や貴族の生活に関する超一級の史料として、1951年昭和26年)に国宝に指定された。また、2011年5月、ユネスコの「世界の記憶」への推薦が決定した。

人物・逸話 編集

 
藤原道長(菊池容斎前賢故実』より)
  • 豪爽な性格であったとされており、『大鏡』には次のような逸話が残されている。若い頃の話として父・兼家が才人である関白頼忠の子の公任を羨み、息子たちに「我が子たちは遠く及ばない、(公任の)影を踏むこともできまい」と嘆息した。道隆と道兼は言葉もなく恥ずかしそうにしていたが、道長のみは「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。(影などは踏まない、その面を踏んでやる)」と答えている。また花山天皇が深夜の宮殿をめぐる肝試しを命じた際には、同様に命ぜられた道隆と道兼が逃げ帰ってしまったのに対し、道長一人大極殿まで行き、証拠として柱を削り取ってきたという。
  • 23歳の頃、懇意にしている甘南備永資を合格させようと永延2年(988年12月4日式部省の試験官だった式部少輔橘淑信を、従者に命じて自身の邸宅に拉致して、試験結果を改ざんするよう迫ったが、拉致行為が世間に露見し、父・兼家から𠮟責の処分を受けたとされる[78]
  • 父・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見た源頼光は将帥の器であると感嘆して、自ら従うようになったという。
  • 弓射に練達し、後に政敵となる兄・道隆の嫡男の伊周と弓比べをし、「道長が家より帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ。」と言って矢を放つと見事に命中し、臆した伊周は外してしまった。続いて道長が「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ。」と言って放つとやはり命中した。道隆は喜ばず、弓比べを止めさせたという[79]
  • 左大臣だった頃、長和2年(1013年)6月に行われた祇園御霊会(現在の祇園祭)に参加していた散楽人たちを、従者たちに命じて衣装が破損するほどの暴行を加え、祭礼を台無しにしたことがある[80]
  • 48歳の頃、妻が外出する際の準備の手際が悪かったとして、長和2年(1013年8月15日、前摂津守藤原方正と前出雲守紀忠道を、自邸の小屋に監禁する行為に及んでいる[81]
  • 文学を愛好した道長は紫式部和泉式部などの女流文学者を庇護し、内裏の作文会に出席するばかりでなく自邸でも作文会や歌合を催したりした。『源氏物語』の第一読者であり、紫式部の局にやってきてはいつも原稿の催促をしていたといわれている(自分をモデルとした策略家の貴族が登場していることからそれを楽しみにしていたとも言われる)。また、主人公光源氏のモデルのひとりとも考えられている。
  • 歌集『御堂関白集』を残し、自ら拾遺以下の勅撰歌人でもある。また、花山天皇時代に行われた寛和二年内裏歌合召人として参加している。もっとも道長本人は和歌より漢詩の方を得手としていたようである。
  • 政治家としては、長保元年(999年)に新制長保元年令)を発令し、過差(贅沢)の禁止による社会秩序の引締や估価法の整備などの物価対策などにも取り組んだ(道長や実資が死ぬと公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政武家政権に政治の実権を奪われる遠因となる)。
  • 本朝世紀』長保元年6月14日条によれば道長が前年の祇園天神会の行列で出された山鉾が、天皇の大嘗祭で用いられるものそっくりに作られていたために道長が同年の祭りの停止を命じたところ、天神が怒って報復を示唆する詫宣をしたために道長がやむなく祭りを許したことが記されている。
  • 晩年はかなり健康を害しており、50歳を過ぎたあたりから急激に痩せ細り、また水をよく飲むようになり、糖尿病が発症したと思われる。さらに視力も年々衰えて、目の前の人物の顔の判別もできなくなった事から、糖尿病の合併症としての視力低下と思われる。それに加えて胸病(心臓神経症)の持病もあった。
  • 仏教(特に浄土教)に対して信仰心が厚く、最期は自らが建てた法成寺阿弥陀堂本尊前で大勢の僧侶に囲まれ極楽浄土を祈願する儀式の中で臨終の時を迎えたとされる。
  • 法成寺を建立したことから御堂関白とも呼ばれるが、実際に関白になったことはない。

官歴 編集

※ 特に指示の無い限り『公卿補任』の記載による。()は新暦換算での日付。新暦はユリウス暦で換算。

系譜 編集

なお、養子・猶子となった者に実父の出家・死去によって縁戚の道長が後見を務めた源成信致平親王の子・倫子の甥)、道長の実の孫でその昇進の便宜のために道長が養子とした信基(教通の子、後の通基)・藤原兼頼(頼宗の子)、同様のケースと考えられる道長の異母兄道綱の実子である藤原兼経道命四天王寺別当[注釈 12])兄弟が挙げられる。この他に正式な縁組は無かったものの、源経房(源高明の子、明子の実弟で道長が後見を務めた)や藤原兼隆(道兼の子)もこれに准じていたと言われている。

関連作品 編集

主人公もしくは主要キャラクターの作品のみ記載。

小説
漫画
映画
テレビドラマ

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 川田康幸は、円融天皇の元に藤原詮子が入内した天元元年(978年)には雅信は右大臣で倫子は15歳と入内可能な状況であった筈であるのにこの時に入内していない、倫子の妹は花山天皇や一条天皇との年齢差から倫子よりも有力な后妃候補になれる筈なのにやはり入内していない、倫子の異母姉は致平親王(円融天皇の異母兄)と藤原定時に嫁いでいるが致平は皇位継承の候補に挙がったことはない(もう一人の娘は藤原実方を生んでいるが、実方の活動時期からして倫子よりもかなり年上だったと推定される)、など『栄花物語』が描く雅信の考え(娘を入内させて天皇の后にする)と実際の雅信が展開した婚姻関係が一致していないとする。
  2. ^ 中宮と皇后宮の分離自体は、正暦元年(990年)に道隆が娘の定子を皇后に冊立する際、既に三后太皇太后昌子内親王:冷泉皇后)・皇太后(詮子:円融女御)・中宮(遵子:円融中宮))が埋まっていた為、遵子を皇后宮と号させ、定子を中宮と号したという前例がある。
  3. ^ 当時、藤原氏からは の3人が后として出ているが全て出家し、尼の身であった。このため藤原氏出身の皇后が行うことになっている大原野祭に奉仕する皇后が1人もおらず、神に対して申し訳が立たない。よってこの際皇后を増員し、祭りに奉仕すべきであるという論理を行成が編み出し、これによって東三条院や一条天皇を説得した(后妃のための公費の中に大原野祭に関する経費が含まれている以上、奉仕する后妃が不在で当該経費が他に用いられるというのは一種の矛盾ではあった)。
  4. ^ 天皇は娍子に后妃となる資格を与えるために父の済時に右大臣を贈官し、妍子の参内の儀を終えた後に娍子の参内(本宮の儀)が開始される日程が組まれていた(実際に妍子も本宮の儀に参列しており、両方の儀式を掛け持つことは不可能ではなかった)。だが、道長の威勢を恐れた右大臣藤原顕光と内大臣藤原公季は本宮の儀を欠席し、これを見た公卿・殿上人も多くが欠席したと言われている。
  5. ^ この場合の太閤とは、土御門殿の再建工事が完了する前年に摂政を息子頼通に譲っていた道長のことである。
  6. ^ 山本淳子は、従来のものとは異なる歌意解釈を提示している[71]。この句は口頭で詠んだだけで道長本人は文字にしていないため、漢字は他人の解釈であり、実際は「この世」は「この夜」とも解釈できるため、単に「今夜の宴は満足です」という意味にもとれる。
  7. ^ 原文漢文。
  8. ^ 藤原実資の『小右記』の現代語訳を手がけている倉本一宏は、実資はこの和歌そのものに対しては否定的な意図や反応を示した訳では無い、と解説している[73]
  9. ^ 胸病(心臓神経症)によりしばしば発作に見舞われたという。発作が出た時は苦しみのあまり、奇声を発するほどであった。
  10. ^ 上島享は道長が仏俗両面に指導的な役割を果たすことで天皇とは異なる「王権」を確立しようとしたとし、それは後三条天皇・白河天皇によって天皇家に吸収されて治天の君の「王権」の一部に転化されたとみる[74]。ただし、これについては佐々木宗雄が引退後の道長は依然として影響力はあったものの、引退後の道長の意見が頼通らに拒否されるなど、摂関や太政官を支配する程の絶対的なものとは言えず、独自の「王権」の存在は認められないと反論している[75]
  11. ^ 藤原頼通が父の墓参をした際に随従した平定家の日記には、道長の墓は浄妙寺の東にあったと記されている。浄妙寺の跡地は現在宇治市立木幡小学校の敷地となっていることから[76]、それが正しいとすれば小学校の東側の茶畑から修道院の敷地に存在していた可能性が高いとされる。なお、茶畑から出土したとされる青磁水注(五代もしくは北宋初期?)が京都国立博物館に所蔵されているが、その場所と水注そのものの大きさから、これを道長の骨壺とする説もあるという[77]
  12. ^ 道命を猶子に迎えた事は『寺門高僧記』のみに記録されている

出典 編集

  1. ^ 北山[1970: 17-18]
  2. ^ 北山[1970: 33]
  3. ^ a b 『栄花物語』巻3 さまざまのよろこび
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  5. ^ 北山[1970: 34]
  6. ^ a b 『大鏡』第5巻 道長
  7. ^ 北山[1970: 35-36]
  8. ^ 杉崎重遠『勅撰集歌人伝の研究-王朝篇一-』東都書籍、1944年「高松上」の説
  9. ^ 北山[1970: 36]
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  11. ^ 下橋敬長述・羽倉敬尚注『幕末の宮廷』平凡社〈東洋文庫353〉、1979年4月、pp249-250.
  12. ^ 太皇太后は冷泉天皇中宮・昌子内親王。皇太后は円融天皇后・藤原詮子。皇后は円融天皇中宮・藤原遵子。
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  14. ^ 『小右記』正暦元年9月30日条
  15. ^ 小右記
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  19. ^ 北山[1970: 48]
  20. ^ 『小右記』長徳元年7月24日条
  21. ^ 『小右記』長徳元年7月27日条
  22. ^ 『百錬抄』長徳元年8月10日条
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  24. ^ 『栄花物語』第4 みはてぬゆめ
  25. ^ 『百錬抄』長徳2年正月16日条、『野略抄』(『小右記』)長徳2年正月16日条(「三条西家重書古文書」所収『九条殿記』裏書)
  26. ^ 『小右記』長徳2年2月11日条
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  35. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  36. ^ 『権記』長徳4年3月3日,12日条
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  79. ^ 『大鏡』
  80. ^ 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年9月発行、P11~12
  81. ^ 繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』柏書房、2005年9月発行、P10
  82. ^ “柄本佑が大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長に、吉高由里子の紫式部と強く影響し合う”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2022年11月8日). https://natalie.mu/eiga/news/500527 2023年5月26日閲覧。 

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集