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==== 武田信虎の甲斐追放 ====
晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、天文10年([[1541年]])の[[海野平の戦い]]にも参加しているが、『[[高白斎記]]』によれば、甲府へ帰陣した同年6月には、晴信や重臣の[[板垣信方]]や[[甘利虎泰]]、[[飯富虎昌]]らによる信虎の駿河追放が行われ、晴信は[[武田家]]の第19代目の家督を[[相続]]する{{efn|信虎追放に関しては『勝山記』や『[[向嶽寺|塩山向岳禅庵小年代記]]』など甲斐国内史料に記される信虎の対外侵攻の軍役や[[凶作]]に際しての[[重税]]など「悪行」を原因としていることから、『[[甲斐国志]]』による合意による隠居であったとする説、今川義元との共謀説などの諸説ある。『甲陽軍鑑』では追放の原因を不和とし、晴信は嫡男として遇されていたが、信虎との関係は険悪化しており、[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])[[正月]]の[[元旦]]祝いの時、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話を記している。平山優は隣国の経済制裁(路次封鎖)や凶作による食料の高騰が、大飢饉のあった天文10年に深刻化したのを原因として国内の「代替わり徳政」を求める声に晴信が対応したとする。一方で信虎期の甲斐国衆は信昌・信縄期の内紛をきっかけとして今川氏や諏訪氏などの隣国の大名の傘下に入っており、甲斐一国を平定しようとすると国衆の救援を名目とする隣国との対外戦争や経済制裁は避けられなかった側面があるとして、それらを単純な信虎の「悪行」とみなすことは出来ないとしている<ref>平山優『武田信虎 <small>覆される「悪逆無道」説</small>』戎光祥出版<中世武士選書・42>、2019年 ISBN 978-4-86403-335-0 p.249-263・354-356.</ref>。}}。しかしこの直後に[[上杉憲政]]に信濃佐久郡を掠め取られた
 
=== 信濃国を平定 ===