「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の版間の差分

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{{main|{{仮リンク|サンティアゴ・デ・コンポステーラの歴史|es|Santiago de Compostela#Historia|en|Santiago de Compostela#History}}}}
 
現在サンティアゴ・デ・コンポステーラのある場所には、[[古代ローマ]]時代には[[ローマ街道]]の交差する交通の要衝という立地から、城塞とそれに付随する集落が存在した<ref name="HIkakutoshi">比較都市史研究会(編)『比較都市史の旅 時間・空間・生活』 原書房 1993年 ISBN 4-562-02400-3 pp.68-79.</ref>。イスラム勢力から離れた[[9世紀]]に[[ヤコブ (ゼベダイの子)|聖ヤコブ]]の墓が発見され、[[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ2世]]によってローマ時代の集落の跡地に新たな集落と実質的にイリア[[司教座]]となる教会が作られたのが、サンティアゴ・デ・コンポステーラの基礎となっている<ref name="HIkakutoshi"/>。[[レコンキスタ]]と再入植(レポブラシオン)運動の最前線に位置することから、[[10世紀]]以降には城壁に囲まれた軍事拠点へと発展した。[[1085年]]のトレド征服後には、王権と植民の拡大を狙う[[カスティーリャ王国#カスティーリャ=レオン王国|レオン・カスティーリャ王家]]と、スペイン教会への影響力強化を望む[[ローマ教皇庁]]の思惑の一致からサンティアゴ巡礼路が整備され、12世紀前半までにガリシア地方の中心都市として著しい発展を遂げた<ref name="HIkakutoshi"/>。
[[Image:Basílica de Santiago 02.JPG|thumb|200px|left|[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂]]]]
 
[[ヤコブ (ゼベダイの子)|聖ヤコブ]]の遺骸が祭られているため、古くから[[ローマ]]、[[エルサレム]]と並んで[[カトリック教会]]で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者が絶えない。巡礼の街道では巡礼者は、その証明に帆立貝の殻を荷物にぶら下げる。途中、教会などが宿泊を提供してくれる。最後のコースは、地面に古切れなどを敷きながら膝だけで歩いていく熱心な信者も多い。
 
聖ヤコブは[[ガリラヤ湖]]の漁師で、弟の[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]と共に[[イエス・キリスト]]に従った。[[ヒスパニア]]において布教活動を行い、エルサレムに帰還後、[[アグリッパ1世|ヘロデ・アグリッパ1世]]によって断首され[[十二使徒]]のうち最初の[[殉教|殉教者]]となった。その遺体を弟子2人が石の船に乗せ海を果てしなくさまよった末に本市付近に辿り着き、埋葬したのが紀元1世紀半のことであった。これが聖地の起源であるといわれている。そうしてこの墓が再発見されたのは、伝説では、9世紀に星に導かれた羊飼いがこの地で聖ヤコブの墓を発見し、遺骨を祭った聖堂が建てられ、そこに教会が作られた。これがサンティアゴ・デ・コンポステーラの町の起源とされ、町の名はラテン語の「Campus stellae」(星の野)あるいは「Compositum」(墓場)にちなんで名付けられたと言われるが、これらは民間語源の域を出ないものである。ガリシアは非常に地名が多いため、地名研究がガリシア語学の重要な研究分野になっており、それによると、Compostelaの語源は、ラテン語のCOMPOSĬTAに示小辞ĔLLAが付いたものであり、意味は「良い場所」で、つまり、「サンティアゴにとって良い場所、ふさわしい場所」ということである。<ref>Ramón Mariño Paz 著『Historia de la lengua gallega』(2008年)、LINCOM Studies in Romans Linguistics 58、LINCOM GmbH、Muenchen、p.23</ref>
旧市街は世界遺産に登録されており、7月25日はサンティアゴ(聖ヤコブ)の日で、(この重なりは6年、5年、6年、11年という周期で起こる。カトリック教会ではこれらの年を「聖年」、「聖ヤコブの年」と定めている)。旧市街を中心に祭りが盛大に行われる。またこの日は{{仮リンク|ガリシアの日|gl|Día da Patria Galega}}でもある。
 
巡礼が盛んだった中世、信者を強く惹きつけたのは[[聖遺物]]と呼ばれるイエスや聖人にまつわる遺品であった。聖遺物には奇跡を起こす力があると信じられた。聖ヤコブを祝うミサ。重さ90キログラムの香炉が人々を清める。巡礼者は辿ってきた長い道のりを振り返り、聖地に導いてくれた神に感謝する。
 
またサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学はスペイン有数の大学のひとつであり、ガリシア地方で最も伝統ある大学である。キャンパスはサンティアゴ旧市街を挟み南と北にあるほか、ルーゴにもある。学生数はおよそ3万人で、これらの学生の多くは市の人口9万人には含まれていない。
サンティアゴは宗教都市であり、観光都市でもあり、また学生の街で、州行政の中心でもあるという異なった顔を持つ街である。
ここへの巡礼をテーマにしつつ神の存在を歴史の時間軸を行き来しながら描いたフランス映画で、「銀河 (La Voie lactée)」(フランス・イタリア合作で、ルイス・ブニュエル監督、1968年)というものがある。「銀河」は、このサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道のことを銀河(天の川)に例えたものである。
 
なお、ガリシア地方では[[花崗岩]]が産出し、この花崗岩をサンティアゴでは道路の舗装材などとして利用してきた。
 
== 地理 ==
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* {{仮リンク|ガリシア民族の日|gl|Día Nacional de Galicia}} - 7月25日は「ガリシア民族の日」とされ祝日となっている<ref>{{cite web|url=http://www.xunta.es/dog/Publicados/1979/19790101/Anuncio956_gl.html|title=DOG Núm. 1|publisher=Xunta de Galicia|language=ガリシア語|date=1979-01-01|accessdate=2013-08-03}}</ref>。またこの日は[[ヤコブ (ゼベダイの子)|サンティアゴ・アポストロ(聖ヤコブ)]]の日でもあり、この日を中心に様々な行事・催し物が行われる。日曜と重なる年は聖年 ([[:gl:Ano Santo|Ano Santo]]) とされ、平年閉じられている聖なる門 (Porta Santa) が開けられ、ここから聖堂内に入ることができる。2010年がちょうど聖年にあたり、11月6日には[[ローマ教皇]][[ベネディクト16世 (ローマ教皇)|ベネディクト16世]](ガリシア語:ビエイト16世)が来訪した。次の聖年は11年後の2021年である。前夜の24日にはカテドラル正面のオブラドイロ広場をメイン会場に大花火大会が催されている。近年は[[プロジェクションマッピング]]による映像と音の催し物がカテドラル正面を用いて行われている<ref>2011年のカテドラル800年の年に行われたプロジェクションマッピングと花火 [http://www.youtube.com/watch?v=hPF5dRAsfeA GPD conmemora el aniversario de la Catedral de Santiago con]</ref>。2013年は、前夜の24日に郊外のアングロイス地区で[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ列車脱線事故|列車脱線事故]]が起きたため、すべての行事が中止された<ref>{{cite web|url=http://www.lavozdegalicia.es/noticia/santiago/2013/07/24/suspenden-fiestas-santiago/00031374695109710556150.htm?idioma=galego|title=Os actos festivos do Apóstolo quedan suspendidos|publisher=La Voz de Galicia|language=ガリシア語|date=2013-07-25|accessdate=2013-08-03}}</ref>。
* [[ロクス|サン・ローケ]]の日 - 8月16日
 
=== サンティアゴ巡礼 ===
[[ヤコブ (ゼベダイ子)|地に聖ヤコブ崇敬が定着したのは[[西ゴート王国]]末期遺骸が祭られているため[[7世紀]]末に遡り<ref name="HIkakutoshi"/>古くから以来 [[ローマ]]、[[エルサレム]]と並んで[[カトリック教会]]で最も人気のある巡礼地であり世界中から巡礼者が絶えない。巡礼の街道では巡礼者は、その証明に帆立貝の殻を荷物にぶら下げる。途中、教会などが宿泊を提供してくれる。最後のコースは、地面に古切れなどを敷きながら膝だけで歩いていく熱心な信者も多い。
 
聖ヤコブは[[ガリラヤ湖]]の漁師で、弟の[[ヨハネ (使徒)|ヨハネ]]と共に[[イエス・キリスト]]に従った。[[ヒスパニア]]において布教活動を行い、エルサレムに帰還後、[[アグリッパ1世|ヘロデ・アグリッパ1世]]によって断首され[[十二使徒]]のうち最初の[[殉教|殉教者]]となった。その遺体を弟子2人が石の船に乗せ海を果てしなくさまよった末に本市付近に辿り着き、埋葬したのが紀元1世紀半のことであった。これが聖地の起源であるといわれている。そうしてこの墓が再発見されたのは、伝説では、9世紀に星に導かれた羊飼いがこの地で聖ヤコブの墓を発見し、遺骨を祭った聖堂が建てられ、そこに教会が作られた。これがサンティアゴ・デ・コンポステーラの町の起源とされ、町の名はラテン語の「Campus stellae」(星の野)あるいは「Compositum」(墓場)にちなんで名付けられたと言われるが、これらは民間語源の域を出ないものである。ガリシアは非常に地名が多いため、地名研究がガリシア語学の重要な研究分野になっており、それによると、Compostelaの語源は、ラテン語のCOMPOSĬTAに示小辞ĔLLAが付いたものであり、意味は「良い場所」で、つまり、「サンティアゴにとって良い場所、ふさわしい場所」ということである。<ref>Ramón Mariño Paz 著『Historia de la lengua gallega』(2008年)、LINCOM Studies in Romans Linguistics 58、LINCOM GmbH、Muenchen、p.23</ref>
旧市街は世界遺産に登録されており、7月25日はサンティアゴ(聖ヤコブ)の日で、(この重なりは6年、5年、6年、11年という周期で起こる。カトリック教会ではこれらの年を「聖年」、「聖ヤコブの年」と定めている)。旧市街を中心に祭りが盛大に行われる。またこの日は{{仮リンク|ガリシアの日|gl|Día da Patria Galega}}でもある。
 
巡礼が盛んだった中世、信者を強く惹きつけたのは[[聖遺物]]と呼ばれるイエスや聖人にまつわる遺品であった。聖遺物には奇跡を起こす力があると信じられた。聖ヤコブを祝うミサ。重さ90キログラムの香炉が人々を清める。巡礼者は辿ってきた長い道のりを振り返り、聖地に導いてくれた神に感謝する。
 
またサンティアゴ・デ・コンポステーラ大学はスペイン有数の大学のひとつであり、ガリシア地方で最も伝統ある大学である。キャンパスはサンティアゴ旧市街を挟み南と北にあるほか、ルーゴにもある。学生数はおよそ3万人で、これらの学生の多くは市の人口9万人には含まれていない。
サンティアゴは宗教都市であり、観光都市でもあり、また学生の街で、州行政の中心でもあるという異なった顔を持つ街である。
ここへの巡礼をテーマにしつつ神の存在を歴史の時間軸を行き来しながら描いたフランス映画で、「銀河 (La Voie lactée)」(フランス・イタリア合作で、ルイス・ブニュエル監督、1968年)というものがある。「銀河」は、このサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道のことを銀河(天の川)に例えたものである。
 
なお、ガリシア地方では[[花崗岩]]が産出し、この花崗岩をサンティアゴでは道路の舗装材などとして利用してきた。
 
=== その他 ===
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; 宗教建築
[[Image:Basílica de Santiago 02.JPG|thumb|200px|left|[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂]]]]
* [[サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂]]
814年に当時の司教であった{{仮リンク|テオドミーロ|gl|Teodomiro (bispo)}}により聖ヤコブの墓が発見されたことでここには小さな教会が建設され、再建を重ね、現在の姿に至った。1077年にアルフォンソ4世が出した建設決定に基づいて第1期から第3期に分けられ建設されることになり、1075年、司教{{仮リンク|ディエゴ・ペラーエス|es|Diego Peláez}}の時代に内陣より建設が開始された。1075年内陣から建設が始まる。11世紀末より行われた第1期では伯爵秘書でアルフォンソ4世の娘婿であった{{仮リンク|ディエゴ・ヘルミレス|es|Diego Gelmírez}}によって中断しながらではあったが、主に東側後陣内陣の建設が行われた。またこの時、エステバンが建設に携わったという説がある。第2期は12世紀初頭からで第1期同様ディエゴ・ヘルミレスによって建設が進められた。