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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[ウイスキー#モルト・ウイスキー|モルトウィスキー]]醸造業者イズラエル・ウィルクス({{lang|en|Israel Wilkes}}、1761年1月31日没、ルーク・ウィルクスの息子)と妻サラ({{lang|en|Sarah}}、旧姓ヒートン({{lang|en|Heaton}}、ジョン・ヒートンの娘))の6人の子供(3男3女)の次男として、1725年10月28日([[グレゴリオ暦]])に{{仮リンク|クラーケンウェル|en|Clerkenwell}}で生まれた{{Sfn|Rigg|1900|p=242}}{{Sfn|Brooke|1964a}}。1722年ごろに生まれた兄イズラエルは1760年3月6日に[[王立協会フェロー]]に選出された後<ref>{{FRS|code=NA3332|title=Wilkes; Israel (c 1722 - 1805)|access-date=1 August 2021}}</ref>、[[アメリカ合衆国]]に移住、1805年11月25日に[[ニューヨーク]]で死去した{{Sfn|Rigg|1900|p=242}}。弟ヒートンは父の蒸留酒事業を引き継いだが、事業に失敗して、1803年12月19日に子女のないまま死去した{{Sfn|Rigg|1900|p=242}}。妹に{{仮リンク|メアリー・ヘイリー|en|Mary Hayley}}がいる。ウィルクスは[[ハートフォード (ハートフォードシャー)|ハートフォード]]の私立学校を通った後、家庭教師の教育を受け{{Sfn|Rigg|1900|p=242}}、続いて1742年に[[リンカーン法曹院]]に入学{{Sfn|Brooke|1964a}}、1744年9月8日に[[ライデン大学]]に入学した{{Sfn|Rigg|1900|p=242}}。ライデン大学在学中に[[形而上学|形而上学者]]{{仮リンク|アンドルー・バクスター|en|Andrew Baxter}}(当時[[ユトレヒト]]に滞在)や哲学者[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]男爵と出会った{{Sfn|Rigg|1900|p=243}}。
 
1747年5月23日、父の望みに反して10歳年上のメアリー・ミード({{lang|en|Mary Mead}}、ジョン・ミードの娘)と結婚した{{Sfn|Rigg|1900|p=243}}{{Sfn|Brooke|1964a}}。これにより[[アイルズベリー|エイルズベリー]]での地所(年収700ポンド相当)を獲得した上、メアリーが母(1769年1月14日没)から多額の資産を継承する見込みであった{{Sfn|Rigg|1900|p=243}}。しかし、メアリーも母も厳格な[[国教忌避|非国教徒]]でウィルクスとは性格が合わず、結局数年のうちに別居を合意した{{Sfn|Rigg|1900|p=243}}。この合意ではウィルクスがエイルズベリーでの地所を引き続き所有し、1人娘メアリー(1750年8月5日 – 1802年3月12日、生涯未婚)の親権を得た{{Sfn|Rigg|1900|pp=243, 248}}。また、妻メアリーは寡婦給与を放棄し、その代償として200ポンドの年金を得た{{Sfn|Rigg|1900|p=243}}。ウィルクスは娘メアリーのほか、庶子2人(1男1女)をもうけた{{Sfn|Rigg|1900|p=248}}。