「尾高惇忠 (実業家)」の版間の差分

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若い頃は[[水戸学]]に大きな影響を受け強烈な[[尊皇攘夷]]思想<ref name="小高53">[[#小高 2008|小高 2008]]、53頁</ref>を持っており、[[文久]]3年([[1863年]])に栄一らと共に、[[高崎城]]を襲撃して武器を奪い(高崎城乗っ取りの謀議)、[[横浜港|横浜]]外人居留地を焼き討ちにしたのち[[長州藩|長州]]と連携して[[江戸幕府|幕府]]を倒すという計画を立てるが、長七郎の説得により中止した。
 
[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]の際には、初め[[彰義隊]]に参加するが脱退し、[[渋沢成一郎]](惇忠や栄一の従兄弟)らと共に振武隊を結成して[[高麗郡]]飯能(現・埼玉県[[飯能市]])の[[能仁寺 (飯能市)|能仁寺]]に陣営を築き、同年5月23日に官軍と交戦するが敗退する([[飯能戦争]])。この戦いで平九郎は自決し、惇忠と成一郎はさらに[[箱館戦争|箱館]]まで転戦した。
 
[[明治維新]]後、[[大蔵省]]官僚となった栄一の縁で、官営[[富岡製糸場]]の経営に尽力した。長女の勇(ゆう)は志願して、その最初の工女になった。また、また、[[蚕|秋蚕]]の飼育法の研究や普及にも尽力した。[[明治]]9年([[1876年]])末に製糸場を離れ、翌明治10年([[1877年]])から[[第一銀行|第一国立銀行]]の[[盛岡市|盛岡]]支店、[[仙台市|仙台]]支店の支配人などを務めた<ref name="kotobank"/>。