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'''自貢市'''(じこう-し)は[[中華人民共和国]][[四川省]]に位置する[[地級市]]。
四川省の重要な工業基地の一つでもある。特に[[中国]]の「三線」政策により内陸のこの地に化学工業が集積した。また、古代よりこの地で産出される「
== 地理 ==
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市域は東西は119.6km、南北は97.2kmにわたり広がり、面積は4,373平方km、うち市区面積は812.6平方km。市域内は低い起伏の多い丘陵地帯が大半で、地勢は北西から東南へ傾斜し、海抜は250mから500mの間。市街地は海抜280mから400mにかけ広がる。
市内の主要河川は長江水系に属し、また[[沱江]]の下流部分のうち127kmが市域内を流れる。市街地を流れる川
[[成都市]]
=== 気候 ===
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自貢の歴史は古いが、「自貢」という地名は近代のものである。[[1939年]]、この地域にあった'''自流井'''と'''貢井'''という2つの古い町が合併して市となり、頭文字をとって「自貢」という名になった。この2つの町の地名は、今も[[自流井区]]と[[貢井区]]という市轄区の名に残っている。どちらも塩水を採る井戸にちなんだ地名であり、製塩業で栄え、豊かな塩商人の活躍する町であった。
自貢では深い[[井戸]]を掘って濃い塩分を含んだ[[地下水]]をくみ上げ、乾燥させて塩を取り出す製塩業が古代から盛んであった。こうした塩は「
「塩都」と称される自貢において、井塩の生産は[[後漢]]の頃にはすでに行われ、富裕な塩商人による繁栄は[[清]]末
[[明]]末期から[[清]]の初期にかけ、自貢のある四川の地は、[[張献忠]]による反乱と住民に対する殺戮、清軍と張献忠軍との戦い、[[南明]]と清の戦い、[[三藩の乱]]などの戦乱が30年以上にわたり続き、荒廃が進んだ。人口の激減した四川には華北のほか、湖北省・湖南省・広東省などからの移民数百万人が流入したが([[湖広填四川]])、さらに[[順治帝]]の五年には疫病、干ばつ、大飢饉が起こった。自貢の城内外には虎が出没して人を襲い、特に現在の富順県の街は虎や豹が跋扈し人の姿が見えないほどとなった。
自貢に属する
[[1939年]]8月、[[四川省 (中華民国)|四川省政府]]は主要な製塩地帯であった[[富順県]]第五区及び[[栄県]]第二区を統合し新に自貢市の設立を決定、9月1日に正式に成立した。当時は[[日中戦争]]が激化していた時期であるため、市成立直後の10月10日から[[1941年]][[8月19日]]にかけての2年間、日本軍は7度にわたり自貢を空襲した。この間、自貢は大きな被害を受けたが、自貢に設置された高射砲が日本軍の爆撃機に対抗した。[[日中戦争]]では日本軍の爆撃を受け被害の大きかった都市でもある。また国民党軍の記録によれば、日中戦争を戦うための寄付金が最も多く寄せられた都市でもある。市内を流れる釜
[[1950年代]]に鉄道が通り、[[1970年代]]末から新市街の近代化が始まり、[[1990年代]]に入り近代化の勢いが加速した。旧市街はかつての「塩の都」であり、今も工業と農業が営まれる。一方、新市街は中国各地からの観光客のための施設が多い観光の町である。
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====四川省自貢市====
* 1953年1月7日 - 一区が'''[[自流井区]]'''に、二区が'''[[貢井区]]'''に、三区が'''[[大安区 (自貢市)|大
* 1953年6月3日 - 四区・五区および大
* 1954年7月27日 - 大
* 1954年11月3日 - 瀘州専区[[富順県]]の一部が郊区に編入。(4区)
* 1955年8月20日 - 大
* 1956年12月7日 - 大安区が自流井区に編入。(3区)
* 1959年8月28日 - 瀘州専区富順県、宜賓専区[[宜賓県]]、内江専区[[栄県]]の各一部が郊区に編入。(3区)
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