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=== 外務大臣 ===
[[ファイル:A leg prosthes of Ōkuma Shigenobu atOkuma Ōkuma Memorial Museum4.JPGjpg|thumb220px|200pxright|leftthumb|[[外国人司法官任用問題#大隈遭難事件|遭難事件]]により右脚切断の重傷った大隈が使用した義足佐賀市・大隈記念館病院にて。両側の4人は[[看護師|看護婦]])]]
[[ファイル:A leg prosthes of Ōkuma Shigenobu at Ōkuma Memorial Museum.JPG|thumb|200px|left|遭難事件で右脚を失った大隈が使用した義足(佐賀市・大隈記念館)]]
明治20年([[1887年]])8月、[[条約改正]]交渉で行き詰まった井上馨[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]は辞意を示し、後任として大隈を推薦した{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=328}}。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=315}}。明治21年([[1888年]])2月より大隈は外務大臣に就任した{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=333}}。このとき、外相秘書官に抜擢したのが[[加藤高明]]である{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=333}}。 また河野、佐野を[[枢密顧問官]]として復帰させ、前島密を逓信次官、[[北畠治房]]を東京控訴院検事長に就任させている{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=334}}。同年、[[黒田清隆]]が組閣すると大隈は留任するが、[[外国人司法官任用問題|外国人判事を導入するという条約案]]が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした[[大日本帝国憲法]]に違反する<ref group="注釈">「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」[[大日本帝国憲法第19条]]</ref>という指摘が[[陸奥宗光]]駐米公使より行われた{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=342}}。大隈は[[裁判所構成法]]の附則から違憲ではないと主張するが、[[井上毅]]法制局長官からも同様の指摘が行われた。[[山田顕義]][[法務大臣]]は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=342}}。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と[[榎本武揚]]文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=344-345}}。
 
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その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年([[1891年]])11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=371}}。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=371-372}}。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=378}}。明治26年([[1893年]])3月25日には進歩党系新聞の『[[郵便報知新聞]]』紙上で「[[大隈伯昔日譚]]」の連載が開始されている{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=375}}。
 
明治29年([[1896年]])3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=414-417}}。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している{{sfn|伊藤之雄|2019上|p=422}}。
 
=== 松隈内閣 ===