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大隈重信

日本の武士(佐賀藩士)、政治家

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日1838年3月11日) - 大正11年(1922年1月10日)は、日本武士佐賀藩士)、政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位侯爵公爵[2]菅原[3]

大隈 重信
おおくま しげのぶ
Shigenobu Okuma 5.jpg
大礼服を着用した大隈重信
生年月日 1838年3月11日
天保9年2月16日
出生地 日本の旗 日本 肥前国佐賀城下会所小路
(現・佐賀県佐賀市水ヶ江)
没年月日 (1922-01-10) 1922年1月10日(83歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市牛込区早稲田
出身校 弘道館(佐賀藩校)
前職 武士佐賀藩士)
所属政党立憲改進党→)
無所属→)
(立憲改進党→)
進歩党→)
憲政党→)
憲政本党
称号 従一位
大勲位菊花章頸飾
侯爵公爵[1]
配偶者 美登
大隈綾子
子女 長女:大隈熊子
親族 大隈信常(養子)
大隈英麿(婿養子)
大隈信幸(養孫)
サイン OkumaS kao.png

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1916年10月9日
天皇 大正天皇

日本の旗 第8代 内閣総理大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日
天皇 明治天皇

日本の旗 第29代 外務大臣(首相兼任)
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年8月10日 - 1915年10月13日

日本の旗 第32代 内務大臣(首相兼任)
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年7月30日 - 1915年8月10日

日本の旗 第30代 内務大臣(首相兼任)
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1915年1月17日

その他の職歴
日本の旗 第14代 外務大臣(首相兼任)
(1898年6月30日 - 1898年11月8日)
日本の旗 第11代 外務大臣
1896年9月22日 - 1897年11月6日
日本の旗 第13代 農商務大臣(外相兼任)
(1897年3月29日 - 1897年11月6日)
日本の旗 第3-4代 外務大臣
1888年2月1日 - 1889年12月24日
日本の旗 第4代 大蔵卿
1873年10月25日 - 1880年2月28日
日本の旗 貴族院議員
1916年7月14日 - 1922年1月10日)
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政治家としては参議大蔵卿外務大臣(第34101328代)、農商務大臣第11代)、内閣総理大臣(第817代)、内務大臣(第3032代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。

目次

生涯編集

生い立ち編集

 
佐賀県佐賀市に現存する大隈重信の生家(国の史跡に指定)
 
佐賀藩士時代の大隈

天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。

重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学(後に復学を許されたが戻らず)。この頃、枝吉神陽から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の「義祭同盟」副島種臣江藤新平らと参加した。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。慶応元年(1865年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書アメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都と長崎を往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた 。

明治維新編集

明治維新に際しては小松清廉の推挙により明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。次いで、大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開設などに尽くした。同年、三枝綾子と再婚。明治3年(1870年)に参議に補され、1872年(明治5年)には、伊藤博文らと協議し、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立を決めた。1873年(明治6年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。

1874年(明治4年)には、ウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置、大隈重信が総裁、佐野常民が副総裁となり、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。

出展品選定にはシーボルト兄弟、主に次男のハインリッヒ・シーボルトがあたり、日本館は連日大盛況の成功を収めた。

大隈の下には伊藤博文井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。

民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

大隈は、会計検査院創設のための建議をおこなっており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議、設立し、自ら初代院長となった。

自由民権運動に同調して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。

下野後編集

野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄犬養毅矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。ただ、明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。明治20年(1887年)、伯爵に叙された。

外務大臣から総理大臣へ編集

 
ブラックタイを着用した大隈
 
和服を着用した大隈
 
アカデミックドレスを着用した大隈

大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した。 同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した[注釈 1]。右脚の切断手術は、ベルリン大学医学部で日本人初のドクトルを取得した順天堂医院院長の佐藤進や大隈夫妻の主治医であるドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって行われた(「ベルツの日記」)。 明治29年(1896年)、 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して翌年に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。またアメリカのハワイ併合に対して、「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」とマッキンリー大統領に言わしめるような強硬姿勢を示して外交危機を招いた。結局、組閣からわずか4か月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。

政界引退編集

明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)11月22日にアメリカの大リーグ選抜チームと早稲田大学野球部の試合における大隈重信の始球式は記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者、総長、政治家である大先生の投球をボール球にしてはいけないと考えた早稲田大学の1番打者がわざと空振りをしてストライクにした。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[5]

政界に復帰、首相へ編集

第一次護憲運動が興ると政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、76歳で、2度目の内閣を組織(第2次大隈内閣)。与党は立憲同志会大隈伯後援会→無所属団→公友倶楽部、および中正会である。時の大隈内閣は、文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった[6]。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対宣戦布告をおこない、翌年1月には外相・加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。ただし、その後日本側は、第五号の7項目を除外した[7]。この間の1月12日には、乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人に爆弾を投げられているが、爆弾が不発だったために事無きを得ている[8]。内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るが、政権は次第に国民の支持を失っていった。改造の際に「いったん辞表を提出し天皇の慰留により留任」というこれまでの藩閥政治家と同様の型をとったことやそれに対する弁明も批判された[注釈 2]。さらに政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月、遂に内閣は総辞職、以後大隈も政界から完全に引退した[注釈 3]。 退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。また、再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。

この間、大正5年(1916年)7月14日に侯爵に陞爵され貴族院侯爵議員となる[11]

死後編集

 
護国寺内 大隈重信墓

大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田の私邸で死去。享年85。1月17日に私邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。

大隈の墓所は佐賀市の龍泰寺東京都文京区護国寺にある。

人物編集

人物像編集

  • 日本の暦を太陽暦から現在でも使われているグレゴリオ暦に変えた。
  • 「あるんである」、若しくは、「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[注釈 4]
  • 現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版する時も口述筆記ですませ、死ぬ時まで文字を書かなくなったためと言われている。しかし、例外もある。大日本帝国憲法の御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署の部分で、『大隈重信』の文字だけがあまり達筆ではない。内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければいけないので、外務大臣の身である大隈の貴重な直筆であることがわかる[13]

人間関係編集

  • 伊藤博文をライバル視していたことがよく知られており、以下のようなエピソードが伝えられている。
    • 明治30年(1897年)に大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には、当時、伊藤が本邸を構えていた。様々な政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず、明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。
    • 大隈と同郷で、彼に目をかけられた行政法学者・織田萬のエッセイ集[14]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈は流石にえらかった、永世不朽の育英の大事業に眼を着けたことには、この伊藤はたゞ頭を下げる外はない」と述べたことに満悦したという。また伊藤がハルビンで暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[15]
  • 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切り捨て、更に同年に西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。しかし、大隈は西郷について、「人情には極めて篤かった」とも述べている[16]
  • 政治家嫌いの福澤諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。いったいどうなるかと、周囲は面白がっていたが、直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福澤先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福澤が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという[17]。当時金策に奔走していた慶應義塾福澤諭吉から大隈重信大蔵大臣宛てに借用願いを提出していた事情がある[18]
    • その後、両者は互いの自宅を訪れるほどに親密となった。大隈は、矢野文雄尾崎行雄犬養毅と言った慶應義塾出身者を会計検査院に起用していたが、「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じた。そのため、明治十四年の政変によって大隈および矢野、尾崎、犬養等の大隈支持者が下野する羽目に陥った。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式では、福澤の姿があった。また、福澤の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った[15]
  • 明治39年(1906年)頃、当時園芸家を目指していた後の衆議院議員・山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。
  • 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。新島は同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで、両者の親交は深まった。大隈は、新島亡き後も徴兵制の改正に端を発した同志社紛争の調停に尽力したほか、京都に行った時は必ず同志社に立ち寄り演説していたと言う。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている。
  • 日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵とも親交があった。1896年5月、大隈は女子大学設立に奔走する成瀬の訪問を受け、協力を要請される。その後、大隈は大学創立委員会委員長となった[19]。1901年に日本女子大学は設立され、大隈は終身評議員となり[20]、1919年の成瀬の告別式には弔辞を寄せている[21]。また大隈の寄付によって、大学の校庭に花園が作られている[22]坪内逍遙ら早稲田大学の教員が日本女子大学での講義を担当したほか、1999年7月に早稲田大学と日本女子大学の間で学生交流協定が締結され、双方の大学の講義を履修することが可能となっている[20]
  • 早稲田の大隈邸には、早稲田大学総長任期中も含め、イェール大学教授のG・Tラッド(1899年、1906年)、ハーバード大学総長のC・W・エリオット(1912年、1921年)、オックスフォード大学教授(1912年)のA・H・セースの他スタンフォード大学総長やブラウン大学総長、シカゴ大学総長夫妻など世界各国から多数の著名人が来邸したため、「私設外務省」と呼ばれたりもした[23]
  • ヴィクトリア女王の女官を務め、のちオックスフォード大学に入学し、比較宗教学を学んだE・A・ゴルドンは、日頃から大隈候を敬慕し、名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、早稲田大学に「石羊」と「ゴルドン文庫」を寄贈された。羊の石像は、早稲田大学の高田早苗記念研究図書館を見守っている。
  • が横綱に昇進した際に土俵入り太刀持ちが使う太刀を贈った。
  • 明治41年(1908年)、コロンビアから来日したアントニオ・イスキエルド(1866‐1922)に庭師の川口友広を紹介し、川口ら3名(2名は氏名不詳)の日本人が初めてコロンビアに渡った。イスキエルドは当時のコロンビア大統領ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられており、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口らのその後の消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある[24]
  • コロンビア駐箚特命全権大使大隈信幸は養孫である。

逸話編集

  • 浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。しかし当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。しかし大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し、互角に渡った。パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。さらに大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスを説得した。大隈はこのことが大きく評価されて政界の中心へと躍り出たが、その一方で信者であった浦上村の農民3,384人は20藩に分けて移され、牢に入れられてキリシタン信仰を捨てるように説得や拷問を受ることになった[25]
  • あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるため様々な方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日に至るまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。
  • 日本最初の鉄道が新橋横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mm(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという(池田邦彦「鉄道史の分岐点」イカロス出版、2005年)。なお、「日本の改軌論争」も参照。
  • 日本初の地方遊説を行った首相でもある。
  • 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢栄一長岡護美の後押しを得て、日印協会を設立している[26]
  • 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトメロンをもって見舞った[27]
  • 大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。
  • 人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。
  • お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。
  • 当時の日本人としては珍しく高身長で190cmあったという逸話があるが、実際は180cmだという[28]
  • 尾崎行雄 「(碁に関しては)伊藤公は最初から余程慎重に考えて打つのに、大隈候の方は、何も考えずに大まかにポンポン打つ。そうしている内に、だんだん局面が不利になってくると、候はそこで初めて考える。もとより頭脳の良い人であるから、妙な窮手を考え出して、どうかこうか血路を拓くことはあるが、候が考えるときには、既に局面が収拾すべからざる状態にまで立ち至っているのだから、結局負け碁になることが多かった。伊藤公は、初めから定石通りに、十分慎重に考えて打つから、破綻が少なく、大隈候は難局に向わなければ、智慧を出さないのだから、天才的な閃きはあっても、結局は敗けることになる。これが両君の性格における著しい相違であった」[29]
  • 天気予報177番は、元々、大隈重信の自宅の電話番号であった。

後世編集

  • 明治35年(1902年)から大正8年(1919年)にかけて三省堂書店で大隈重信を総裁、斎藤清輔を編集長として、日本最初の本格的な百科事典である「日本百科大辞典」の編纂が行われた。この辞典の編纂により三省堂は一時破産したが、この事業の挫折は大日本帝国の文化的な威信にかかわるという声が上がり、再建が計画され、大正8年(1919年)に全10巻となって完成した。
  • 昭和44年(1969年)から同45年(1970年)にかけて、早稲田大学出版部で「大隈伯昔日譚」などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。
  • 大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、平成19年(2007年)に東大先端科学技術センターにより公開された。
  • マスクメロン協会の設立や帝国愛会初代会長、日本園芸会会長、日本自動車協会の設立・名誉会長、帝国航空協会初代会長、帝国鉄道協会会長、経済調査会官制会長、大日本皇道立教会会頭、同仁会会長(現明和病院)、恩賜財団済生会顧問、東洋文化学会(大東文化学院の礎)初代会長、大日本教育会(帝国教育会)名誉会員など、政治や教育以外の多方面で活躍し要職に就いた。

評価編集

  • 尾崎咢堂 「予は四十有余年の久しき間、親しく教えを受けたが、大隈候の怒った顔を見たことがない」[30]
  • 渋沢栄一 「逢って見ると案に相違の書生肌で、その間に少しの隔たりもない。君も僕も勉強中の書生なのだから、堅苦しい事は一切やめて、愉快な書生づき合いで仕事をやろうじゃないかという。私は驚きもしたし、また非常な愉快を感じたのでした」[31]
  • 関直彦
    • 「よく細事を記憶し、その人に会う時は、必ずその申越に対して返答を為し、その贈物に対して挨拶を為すを例とす。前年余が京都に行きし時、あたかも秋の頃にて、松茸が市に現われ始めたれば、五百目ばかり少量の松茸を伯邸に送りたるころあり。その後掛け違いて半年も面会せざりしが、たまたま伯は関西の遊説に赴かれし時、余も新橋駅に見送りしに、伯は周園に群がる人々を押し分け、不自由の足を引き摺りながら、余の立てる前に来られ、『関君、先達っては松茸の初物をわざわざ京都から贈られ、誠に結構であった、有難う』と挨拶をせられぬ。既にその事を忘れていたる余は却って面喰いしが、もし地方の淳朴なる有志なりせば、涙を溢して喜ぶなるべし。人心収攬の機微は成る程この所だなと感心せしことあり」[32]
    • 「伊藤公は官僚の巨頭 大隈伯は政党の首領」[33]
  • 堀江秀雄 「豪宕の相貌ありて多言、とてもかくても他人に下らざる属気があった」[34]
  • 松井広吉 「何といっても気持ちの良い、しかして政界の人気役者の随一は大隈候だ」[35]

栄典・授章・授賞編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜編集

大隈家
「大隈家は、伝承によれば、菅原道真の血筋を受け継いでいるという。戦国時代末、その末裔である家泰(いえやす)が筑後国大隈村(現福岡県久留米市梅満町)に土着して大隈に改姓。家泰の孫・大隈孝家(たかいえ)が肥前国中津江村に移住して、やがて鍋島氏に仕えたのだと伝えられる。」という[56][57]
系図
※実線は実子。破線は養子。
 
 
 
 
大隈家泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂隆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義辰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝辰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
安兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
五大夫
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦兵衛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
政辰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満辰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信保
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三枝七四郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
南部利剛
 
重信
 
綾子
 
松浦詮
 
三枝守富
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
英麿
 
熊子
 
 
 
 
 
信常
 
光子
 
久原房之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊子
 
信幸
 
 
 
磐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
和子
 
明子
 
治子
 
里砂
  • 最初の妻・美登との長女・熊子:幼名は犬千代[58]南部利剛の次男・英麿を婿養子に迎えるが、明治35年(1902年)に離婚。
  • 2番目の妻・綾子は旗本・三枝七四郎の次女で、小栗忠順の親戚。綾子の兄の三枝守富小倉鉄道取締役)の三女・光子は重信の養子・信常の妻。
  • 養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男。侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。
子孫と誤解される人物
  • 衆議院議員で医師の大隈和英は、自身のフェイスブックにて【「大隈重信公の玄孫」ではありません。】(2014年12月20日付)と否定している[59](実際には重信以前に分家した大隈家の別の家系)。

大隈重信像編集

大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、主に大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。

 
大隈重信像
 
大隈講堂に向かって立つ
早稲田大学
早稲田大学早稲田キャンパスには2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は昭和7年(1932年10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた。右足を失った後の姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である彫刻家朝倉文夫は大隈像を3回制作しているが、この立像は2回目のもの。高さは298cmあり、大隈講堂の方向を向く形で設置されている。受験期には受験生により賽銭が供えられることも少なくない。
また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は大隈講堂内にあり、制作者は同じく朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。元々は現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。1907年に大学創立25周年と大隈の数え年70歳を記念して建てられた[60]。1916年に綾子夫人像の建設が計画されると、若手教授や学生達の反対運動が起こり、大隈銅像前に400名が集まり反対演説をした[60]。綾子夫人像の建設は一旦中止されたが、10年後に大隈会館に設置され、現在は大隈庭園にある[60]
これら以外にも、他のキャンパスに大隈の胸像が設置されている。
国会議事堂
国会議事堂にある大隈像は、中央広間1階に日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。昭和13年(1938年2月明治憲法発布50周年を記念して作られた。朝倉文夫作。
大隈記念館
佐賀県佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は昭和63年(1988年4月に大隈重信の生家跡地に建てられた。大礼服姿の立像で、高さは180cmあり、実際の大隈重信の身長と同じとされている。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。
大隈重信旧宅
佐賀県佐賀市にある大隈重信の旧宅は、武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されている。庭園には、葬儀委員長を務めた波多野敬直の筆による「大隈重信公誕生地」の記念碑が建っている。


著作編集

単著編集

  • 『国議院設立意見』 伊藤博文1881年NDLJP:1170238 - 伊藤博文写の複製。
  • 『菅公談』 東京専門学校出版部、1900年10月。NDLJP:781576
    • 『菅公談』 北野会、1900年10月。NDLJP:781575
  • 『政務調査に関する大隈総理の演説』 円谷胖治 編、憲政本党本部、1901年4月。NDLJP:783389
  • 『大隈伯時局談』 大隈重信 述、博文館、1905年2月。NDLJP:1881412 - 肖像あり。
  • 『大隈伯演説集』 早稲田大学編輯部 編、早稲田大学出版部、1907年10月。NDLJP:782937 NDLJP:898212 - 政治及外交につき15編、経済は財政につき6編、教育及宗教につき6編を収録。
  • 『日本産業論』 工業之日本社、1909年11月。NDLJP:801572
  • 『大隈伯社会観』 立石駒吉編、文成社、1910年10月20日NDLJP:994558
  • 『国民読本』 丁未出版社 ほか、1910年3月。NDLJP:783078 - 共同刊行:宝文館。
    • 『国民読本』 丁未出版社 ほか、1913年、改訂。NDLJP:1183676 - 共同刊行:寳文館。
  • 『経世論』 冨山房、1912年11月。NDLJP:1884915 - 肖像あり。
  • 『開国大勢史』 早稲田大学出版部、1913年4月28日NDLJP:950601 NDLJP:3440192 - 共同刊行:実業之日本社。
  • 『明治大帝の御遺業』 国民教育講習会、1913年7月11日NDLJP:905851
  • 『経世論』続編、富山房、1913年10月23日NDLJP:949416
  • 『立憲国民訓』 大隈重信 述、中興館書店、1914年3月10日NDLJP:950038
  • 『青年訓話』 丸山舎書籍部、1914年5月31日、補再版。NDLJP:951391
  • 『国民教育の大本』 堀尾太郎 編、明誠館、1914年6月22日NDLJP:980197
  • 『国民小読本』 丁未出版社 ほか、1914年NDLJP:1185199 - 共同刊行:宝文館。
  • 『國民二十訓』 丁未出版社、1915年6月。NDLJP:1886570
  • 『日支民族性論』前,後編、堤康次郎 編、大隈重信 述、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第6,7巻〉、1915年7月20日NDLJP:933424 NDLJP:933425
    • 『大隈重信、中国人を大いに論ず 現代語訳『日支民族性論』』 倉山満 編、大隈重信 述、祥伝社、2016年9月2日
  • 『国民教育論』 通俗大学会〈通俗大学文庫 第2編〉、1915年11月10日NDLJP:933451
  • 『国体の精髄』 大隈重信 述、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第10巻〉、1915年12月22日NDLJP:925183
  • 『中心勢力移動論』 公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第15巻〉、1916年4月1日NDLJP:933431
  • 『大隈侯爵講演集 帰郷記念』 大隈侯爵講演集記念刊行会 編、大隈重信 述、大隈侯爵講演集記念刊行会、1918年3月3日NDLJP:957495
  • 『縱談横語』 大隈重信 述、日本書院、1918年9月。NDLJP:1886637 - 肖像あり。
  • 『現代青年に告ぐ』 偉人言行研究会 編、大隈重信 述、大盛堂書店 ほか、1919年4月25日NDLJP:961614 - 共同刊行:城北書房。
    • 『現代青年に告ぐ』 偉人言行研究會 編纂、大隈重信 述、内外出版協會、1919年10月、第3版。NDLJP:1886699
  • 『青年の為に』 野中正 編、東亜堂〈袖珍名家文庫 第4編〉、1919年6月21日NDLJP:933317 - 「袖珍名著文庫」,「縮刷名家文庫」トセルモノモアリ。
  • 『世界大戦以来 大隈侯論文集』 大観社、1919年6月28日NDLJP:955655
  • 『人種問題』 早稲田大学出版部〈世界改造叢書 第5編〉、1919年11月22日NDLJP:962255
  • 『働け働け飽迄働け』 日本書院、1921年2月10日NDLJP:961796
  • 『隈侯閑話』 池田林儀 編、報知新聞社出版部、1922年3月13日NDLJP:986584
  • 『吾輩の社會觀』 大隈重信 述、大鐙閣、1922年3月、改版。NDLJP:1880669 - 肖像あり。
  • 『大勢を達觀せよ』 野畑一男 編、大隈重信 述、帝國講學會 (発売)、1922年3月。NDLJP:1880883
    • 『大勢を達観せよ』 芳文堂、1922年3月NDLJP:1880883
  • 『大隈侯論集』 相馬由也 編、實業之日本社、1922年4月。NDLJP:1880958 - 折り込あり。
  • 『東西文明之調和』 早稲田大学出版部 ほか、1922年12月30日NDLJP:962817 - 共同刊行:実業之日本社、大日本文明協会。
    • 『東西文明の調和』 大日本文明協会、1923年1月15日NDLJP:1088402
    • 『東西文明之調和』 早稲田大学出版部、1936年NDLJP:1914426
    • 『東西文明之調和』 早稲田大学出版部、1990年10月。ISBN 4-657-90039-0 - 大隈 (1922f)の複製。
  • 『大隈侯昔日譚』 円城寺清 編、新潮社、1922年NDLJP:1908934 - 『大隈伯昔日譚』(大正3再版刊)の改題書。
  • 『早稲田清話』 相馬由也 編、冬夏社、1922年NDLJP:964461
  • 『大隈重信東京遷都談』 東半球協会〈東半球資料 第21号〉、1941年12月25日NDLJP:1274751
  • 『大隈重信のことば』 高野善一 編、稲言社、1964年NDLJP:2976303 - 付:文献181-185頁。
  • 大隈伯昔日譚』1、円城寺清 編、大隈重信 述、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、1980年9月。ISBN 978-4-13-097857-6 - 立憲改進党々報局(明治28年刊)の複製。
  • 大隈伯昔日譚』2、円城寺清 編、大隈重信 述、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、1981年4月。ISBN 978-4-13-097858-3 - 立憲改進党々報局(明治28年刊)の複製。
  • 『大隈重信とその時代 議会・文明を中心として 大隈重信生誕一五〇年記念』 早稲田大学大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1989年10月。ISBN 4-657-89029-8

選集編集

大隈文書編集

  • 『大隈文書』第1巻、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1958年NDLJP:2987595
  • 『大隈文書』第2巻、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1959年NDLJP:3025422
  • 『大隈文書』第3巻、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1960年NDLJP:3025423
  • 『大隈文書』第4巻、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1961年NDLJP:3025424
  • 『大隈文書』第5巻、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1962年NDLJP:3025425
  • 『大隈文書』総目次、早稲田大学社会科学研究所 編、早稲田大学社会科学研究所、1963年NDLJP:2987627
  • 『大隈文書補遺』 早稲田大学図書館 編、雄松堂書店(発売)、1978年 - 箱入(23cm)各箱2リール。

大隈重信叢書編集

  • 『大隈重信叢書』第1巻、早稲田大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1969年 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈重信は語る : 古今東西人物評論』。
  • 『大隈重信叢書』第2巻、早稲田大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1969年 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈伯昔日譚』。
  • 『大隈重信叢書』第3巻、早稲田大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1969年 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈侯昔日譚』、『大隈侯昔日譚補』。
  • 『大隈重信叢書』第4巻、早稲田大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1970年 - 監修者:木村毅。内容細目:『薩長劇から国民劇へ : 明治政党興亡史談』。
  • 『大隈重信叢書』第5巻、早稲田大学史編集所 編、早稲田大学出版部、1970年 - 監修者:木村毅。内容細目:『大隈侯座談日記』。

共著編集

編著編集

  • 『開国五十年史』上、下巻、附録、大隈重信 編、開国五十年史発行所、1907-1908。NDLJP:991350 NDLJP:991351 NDLJP:991352
    • Count Shigénobu Okuma, ed. (1909), Fifty years of new Japan (Kaikoku gojūnen shi), 2 v., English version ed. by Marcus B. Huish., Smith, Elder  - "Fifty-six chapters ... contributed by almost as many authorities."--Note.
    • 開国五十年史, 大隈重信 撰, 開国五十年史発行所, (1909-9), NDLJP:773216  - 『開国五十年史』(明治40-41年刊)の大部分を漢訳したもの。
    • 『開国五十年史』 大隈重信 撰、原書房〈明治百年史叢書〉、1970年 - 『開国五十年史』(明治40-41年刊)の複製。

序文編集

  • Tadayoshi Sakurai (1999), edited by Alice Mabel Bacon ; introduction to the Bison books edition by Roger Spiller., ed., Human bullets: a soldier's story of Port Arthur, with an introduction by Count Okuma ; translated by Masujiro Honda, University of Nebraska Press, ISBN 080329266X  - Covertitle:Human bullets : a soldier’s story of the Russo-Japanese War.

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 事件直後、現場を通りかかった高木兼寛により最初の処置が行われ、その後に駆け付けたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ佐藤進伊東方成岩佐純池田謙斎らと高木による協議で右足の切断が決定された[4]。その右脚切断手術は佐藤やベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
  2. ^ 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた[9]
  3. ^ ただし、大隈が元老に加えられたとする文献がまれにあるほか、元老同様に次期首相について天皇の下問を受けたこともある[10]。また、死去するまで貴族院侯爵議員であった。
  4. ^ 「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある[12]

出典編集

  1. ^ 早稲田大学古典総合データベース、最後の爵位は公爵(早稲田大学古典籍総合データベース国立公文書第五類叙勲裁可書(請求番号:勲00598100、件番号023、作成部局:内閣、年月日:大正11年1月10日))。但し、墓石等には侯爵と記す。墓誌には「従一位大勲位侯爵大隈公 墓誌」とあり、「公 諱 重信 稱八太郎 大隈氏本姓菅原 其糸出自天満公 考 諱 信保-」とあった。
  2. ^ 早稲田大学古典籍総合データベース、最後の爵位は公爵(早稲田大学古典籍総合データベース、国立公文書第五類叙勲裁可書(請求番号:勲00598100、件番号023、作成部局:内閣、年月日:大正11年1月10日、内閣総理大臣高橋是清、内閣書記官長三土氏決裁)但し、墓石等には侯爵と記す。
  3. ^ 早稲田大学古典籍総合データベース
  4. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)60頁
  5. ^ 幸運社 (2002, p. 249)
  6. ^ 「日本大百科全書-伝染病研究所」
  7. ^ 有馬 (1999, pp. 111-113)
  8. ^ 和田清美『明宝寒水史』78-79頁
  9. ^ 岡 (2001, p. 109)
  10. ^ 百瀬 & 伊藤 (1990, pp. 13f)
  11. ^ 『官報』第1188号、大正5年7月17日。
  12. ^ 岡崎 (1987, p. 195)
  13. ^ 『大日本帝国憲法と日本国憲法』石渡隆之(主任公文書専門官)『北の丸』第14 号(昭和57 年1 月刊行)より (国立公文書館デジタルアーカイブ)
  14. ^ 織田 (1943, p. 269)
  15. ^ a b 大隈をめぐる人々”. 2014年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月17日閲覧。
  16. ^ 木村 (2000, p. 113)
  17. ^ 知ってるつもり?!』「大隈重信」(日本テレビ放送網/1998年2月15日放送)
  18. ^ 福澤諭吉書簡大隈重信宛て
  19. ^ “伊藤博文、西園寺公望、大隈重信ら重鎮に協力求める…失敗すべてかぶる覚悟で”. 産経新聞. (2015年6月8日). http://www.sankei.com/west/news/150608/wst1506080002-n1.html 2016年1月15日閲覧。 
  20. ^ a b 特集・広がるネットワーク~国内協定校との学生交流~”. 早稲田大学. 2016年1月15日閲覧。
  21. ^ 成瀬仁蔵 その生涯 ─"永劫(とわ)"に生く”. 日本女子大学. 2016年1月15日閲覧。
  22. ^ 写真で見る日本女子大学の110年”. 日本女子大学. 2016年1月15日閲覧。
  23. ^ 服部嘉香 『随筆 早稲田の半世紀』 1957年、222ページ
  24. ^ イネス・サンミゲル『黄金郷を求めて―日本人コロンビア移住史』神奈川大学出版会、2014年 3、92、107頁
  25. ^ カトリック長崎大司教区 Home 教区の歴史 大浦天主堂の建立 信徒発見 浦上四番崩れ
  26. ^ “【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)「日印協会」の変遷”. 産経新聞 (産経新聞社). (2008年9月28日) 
  27. ^ 木村 (2000, p. 237)
  28. ^ 飛田忠順によれば、大隈は自らの身長について「5尺8寸余あるんである」と語ったという(『早稲田大学野球部史』 375ページ)
  29. ^ 尾崎行雄『日本はどうなる』
  30. ^ 『咢堂漫談』
  31. ^ 『伊藤博文公』
  32. ^ 『七十七年の回顧』
  33. ^ 『七十七年の回顧』
  34. ^ 『維新英雄詩人伝』
  35. ^ 『四十五年記者生活 松井広吉 著』
  36. ^ a b c d e f g h i j k l 大隈重信』 アジア歴史資料センター Ref.A06051165900 
  37. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。
  38. ^ 『官報』第4491号「叙任及辞令」1898年6月21日。
  39. ^ 『官報』第2830号「叙任及辞令」大正11年1月11日。
  40. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  41. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  42. ^ 『官報』第7077号「宮廷録事 - 恩恵」1907年2月4日。
  43. ^ 『官報』第8054号「叙任及辞令」1910年4月30日。
  44. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  45. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  46. ^ 『官報』第2830号「叙任及辞令」大正11年1月11日。
  47. ^ 『最後の爵位は公爵(早稲田大学古典総合データベース国立公文書第五類叙勲裁可書(請求番号:勲00598100、件番号023、作成部局:内閣、年月日:大正11年1月10日、内閣総理大臣高橋是清、内閣書記官長三土氏決裁)。但し、墓石等には侯爵と記す。子孫も公爵を名乗っていない
  48. ^ 『官報』第1754号「叙任及辞令」1889年5月8日。
  49. ^ 『官報』第4166号「叙任及辞令」1897年5月25日。
  50. ^ a b 『官報』第4509号「叙任及辞令」1898年7月12日。
  51. ^ 『官報』第4528号「叙任及辞令」1898年8月3日。
  52. ^ a b 『官報』第4583号「叙任及辞令」1898年10月7日。
  53. ^ 『官報』第7992号「叙任及辞令」1910年2月16日。
  54. ^ 『官報』第1159号「叙任及辞令」1916年6月13日。
  55. ^ 『官報』第1034号「叙任及辞令」1916年1月15日。
  56. ^ 国民リーダー大隈重信, p. 97, - Google ブックス
  57. ^ 片岡 (2009, p. 97)
  58. ^ 大園 (2005, p. 178)
  59. ^ 大隈和英. “おおくま 和英”. facebook. 2015年1月11日閲覧。
  60. ^ a b c 平瀬礼太、「夫人像の建設巡り紛糾「大隈重信像」」(銅像はつらいよ十選 5)、日本経済新聞、2013年12月19日

参考文献編集

関連項目編集

関連作品編集

映画
テレビドラマ

外部リンク編集


公職
先代:
伊藤博文
山本権兵衛
  内閣総理大臣
第8代:1898年6月30日 - 同11月8日
第17代:1914年4月10日 - 1916年10月9日
次代:
山縣有朋
寺內正毅
先代:
伊藤博文
西園寺公望
西徳二郎
加藤高明
  外務大臣
第3・4代:1888年2月1日 - 1889年12月24日
第11代:1896年9月22日 - 1897年11月6日
第14代:1898年6月30日 - 同11月8日(兼任)
第29代:1915年8月10日 - 同10月13日(兼任)
次代:
青木周蔵
西徳二郎
青木周蔵
石井菊次郎
先代:
原敬
大浦兼武
  内務大臣
第30代:1914年4月16日 - 1915年1月17日(兼任)
第32代:1915年7月30日 - 同8月10日(兼任)
次代:
大浦兼武
一木喜徳郎
先代:
榎本武揚
  農商務大臣
第13代:1897年3月29日 - 同11月6日
次代:
山田信道
学職
先代:
創設
早稲田大学総長
初代:1907年 - 1922年
次代:
塩澤昌貞
日本の爵位
先代:
陞爵
侯爵
大隈家初代
1916年 - 1922年
次代:
大隈信常
先代:
叙爵
伯爵
大隈家初代
1887年 - 1916年
次代:
陞爵