「マーヘヴナのクフーリン」の版間の差分
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2021年11月13日 (土) 14:20時点における版
『マーヘヴナのクフーリン』(英語: Cuchulain of Muirthemne)はオーガスタ・グレゴリーの作家としてのデビュー作[注 1]。1902年初版。 マロリーの『アーサー王の死』をモデルとし、クフーリンにまつわる伝承を収集・編集してひとつながりの物語の形に整えた再話文学であり、語り口として方言であるアイルランド英語を意識的に採用している。
「マーヘヴナのクフーリン」という転写はこの作品の第一章のみを日本語訳した山宮允に依り、日本語文献ではこの他にも「ムルヘヴネのクフーレン」[2]・「ムルテウネのクーフリン」[3]といった名で呼ばれる。
評価・反応
『マーヘヴナのクフーリン』は商業的な成功を収めた[4]。海外においても読者を獲得し、アメリカでは時の大統領セオドア・ルーズベルトや[5]、『トムソーヤの冒険』のマーク・トウェインがグレゴリーに感想を寄せている[6]。なおグレゴリーはルーズベルトと、1911年におけるアベイ座のニューヨーク公演に際し直接面会する機会を得てもいる[7]。
W・B・イェイツは、デビュー以前のグレゴリーの執筆能力を評価しておらず、またゲール語からの翻訳能力を有していないとも考えていた。 事実、後者に関してはイェイツの見立ては正しく、『マーヘヴナのクフーリン』が直接依拠していたのは主にケルト学者らによるゲール語文学の翻訳成果である。 しかし、『マーヘヴナのクフーリン』に先立ってグレゴリーが試作した「ウスナの子」(クフーリンの伯父である王がうら若い娘デアドラを娶らんとして、 彼女の恋人を謀殺する物語)や「クフーリンの死」の再話を読んで考えを改め、以来彼女の執筆を精神的に支援するようになった。
外部リンク
- オーガスタ・グレゴリー「マーヘヴナのクフーリン」 - 山宮允が第一章のみを日本語訳したもの。