「丹後町立虎杖小学校」の版間の差分
Asturio Cantabrio (会話 | 投稿記録) 京都府竹野郡丹後町にあった小学校 |
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2021年11月14日 (日) 06:01時点における版
丹後町立虎杖小学校(たんごちょうりつ いたどりしょうがっこう)は、かつて京都府竹野郡丹後町鞍内(現・京丹後市丹後町鞍内)にあった公立小学校。1890年(明治23年)に分教場として創立された[1]。1991年(平成3年)3月をもって閉校となり、丹後町立宇川小学校に統合された。
丹後町立虎杖小学校 | |
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国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 丹後町 |
設立年月日 | 1890年 |
閉校年月日 | 1991年3月 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
所在地 | 〒627-0238 |
北緯35度43分18.0秒 東経135度09分46.2秒 / 北緯35.721667度 東経135.162833度座標: 北緯35度43分18.0秒 東経135度09分46.2秒 / 北緯35.721667度 東経135.162833度 | |
プロジェクト:学校/小学校テンプレート |
地理
沿革
明治・大正・戦前
1890年(明治23年)、竹野郡上宇川村字鞍内に平尋常小学校分教場が置かれ、三山・小脇・竹久僧・鞍内の4区を学区とした[1]。1896年(明治29年)、上宇川村字三山に新たに上宇川第二尋常小学校の校舎が設立され、三山・小脇・竹久僧の3区を学区とした。この際に鞍内は上宇川第一尋常小学校の学区となった[1]。1904年(明治37年)には鞍内が上宇川第二尋常小学校の学区に移動した。1905年(明治38年)には上宇川村小脇小字板取33に新築された校舎で授業が開始された[1]。
1907年(明治40年)3月には上宇川第二尋常小学校から虎杖尋常小学校に改称した[1]。1923年(大正12年)12月には校舎が火災で焼失し、重要記録を焼失し[1]た。1938年(昭和13年)4月1日には虎杖尋常小学校が廃止され、上宇川尋常高等小学校虎杖分教場となった[1]。1941年(昭和16年)には上宇川国民学校虎杖分教場となり、1947年(昭和22年)には上宇川村立上宇川小学校虎杖分教場となった。
戦後
1955年(昭和30年)2月1日には上宇川村など1町4村が合併して竹野郡丹後町が発足し、丹後町立上宇川小学校虎杖分教場となった。 1963年(昭和38年)1月には昭和38年1月豪雪(三八豪雪)で校舎が倒壊寸前となり、集落ごとに分散授業が行われた[1]。
1964年(昭和39年)1月、工事費975万円で鉄筋コンクリート造2階建ての校舎が竣工した[1]。同年4月1日には丹後町立上宇川小学校から独立し、丹後町立虎杖小学校が発足した[1]。1967年(昭和42年)9月には完全給食が実施され、上宇川小学校からパンや副食が運搬された[1]。1969年(昭和44年)12月には工事費180万円でグラウンドが拡張され[1]、大運動会が開催された[2]。
戦後の虎杖小学校の学区は丹後町鞍内・三山・乗田原・竹久僧・小脇の5集落である[2]。1968年(昭和43年)には虎杖学区に「くらしを守る会」が結成され、行政らに対して運動を続けていた[2]。しかし、丹後町では高度経済成長や三八豪雪などをきっかけとする離村・廃村(丹後町の離村・廃村)が相次いでおり、1964年(昭和39年)には竹久僧が全戸離村、1969年(昭和44年)には乗田原が離村、1972年には小脇が離村(1軒のみとなる)、1974年(昭和49年)には三山が三宅団地に集団移住している[2]。
脚注
関連項目
参考文献
- 『丹後町史』丹後町、1976年。
- 池井保『亡び村の子らと生きて 丹後半島のへき地教育の記録』あゆみ出版(からたち文庫)、1977年。