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[[伊勢神宮]]の[[斎宮]]の場合、初斎院から移って[[伊勢国|伊勢]]に[[群行]]するまでの1年間を過ごす施設を指し、卜定によって宮城郊外の浄野に設置されることとされていた(『[[延喜式]]』)。古くは[[天武天皇]]の時代に[[大伯皇女]]が泊瀬斎宮に籠った例が知られ、[[平安京|平安]][[遷都]]以後は主に[[嵯峨野]]もしくは[[西院]]に造営された。現在残る[[野宮神社]]・[[西院野宮神社]]・[[斎宮神社]]・[[斎明神社]]はその名残とされている。斎宮の野宮は当該斎王1代・1年間限りのもので、斎宮の群行もしくは退下の後に一旦取り壊され、新たな斎宮卜定後に新たに造営された。とはいえ、斎宮に仕える職員は男女145名(うち80名は初斎院時代より奉仕)を数えるなど、一定の規模が備わった施設であった。
 
これに対して、[[賀茂神社]]の[[斎院]]の場合は、初期には[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]のほとりと考えられるが、その後[[紫野]]に置かれた斎院御所(紫野院)のことを指した。[[角田文衞]]によると、上京区社横町、社突抜町附近と推察している。また葵祭の時には、野宮からの斎院を勅使が一条大路で迎え、賀茂御祖神社(下鴨神社)、賀茂別雷社(上賀茂神社)へ行列し、次の日御薗橋を通って還ったとも推察している。
 
== 脚注 ==