「木馬亭」の版間の差分

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開場当初から1日1枚、講談を番組に入れ続け、浪曲の会も度々開催していた[[講談]]定席の上野・[[本牧亭]]が[[2011年]](平成23年)に無くなった現在、若手中心に貴重な出番を提供する<ref>deji</ref>。
 
現在も席亭は[[根岸京子]]([[根岸吉太郎]]の母親<ref>『浅草: 戦後篇』堀切直人、右文書院, 2005、p129</ref><ref group="注釈">近年は高齢で体調を崩してか、テケツに姿が無い</ref>)。経営は[[浅草六区]]の黄金期を支えた[[根岸興行部]](当初の席亭は京子の亡夫・2代目[[根岸浜吉]]。吉之助は大旦那)<ref>実録</ref>。席数は131席<ref>deji</ref>。
 
席亭は[[根岸京子]]([[根岸吉太郎]]の母親<ref>『浅草: 戦後篇』堀切直人、右文書院, 2005、p129</ref>、2019年12月17日死去<ref>{{Cite news|title=根岸京子さんが死去 「木馬亭」席亭|newspaper=日本経済新聞|date=2019-12-18|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53498650Y9A211C1000000/|author=共同通信社}}</ref>)が長年務めた。入口で迎えてくれる京子の笑顔は、木馬亭の名物であった。
 
明治期に[[メリーゴーランド]]を設置し客を集めた「[[木馬館]]」からの歴史を踏襲しており、入口右脇にそのモニュメントが飾られている。[[安来節]]の常打ち小屋として長らく続いた。空き小屋であった1階部分を、浪曲師[[東家楽浦]]や会長だった[[三門博]]率いる若手グループの要請により、[[1970年]](昭和45年)5月上席から「木馬浪曲会」としてスタートする<ref>唯1999p.370</ref>。1年後<ref>『写真にみる浅草芸能史』芝清之の解説文。p.196</ref>に「木馬亭」の呼び名を使用するようになる。(それ以前の歴史・現在の2階については[[木馬館]]大衆劇場の項を参照のこと)<ref>実録p.370</ref>。
 
名物は入口で迎えてくれるお席亭・根岸京子の笑顔である。「アイスもなか」(バニラ・あずきの二種)は中入りに客席後方で販売される。
 
近年、舞台終わりでのご祝儀を渡す行為が見られ無くなりつつある<ref>社会学的見地から着目。</ref>。