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疑問点、三大上水道の他の2件を含確かな典拠、日本三代一覧に復帰は可能か。
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|pref = 兵庫県
|img = ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan01bs3.jpg
|img_capt = 大手門(高麗門)二層隅櫓<ref>{{refnest|かつて高麗門の奥に一層の櫓門(「<ref>{{cite web|utl=http://www.ako-rekishi.jp/castle/|title=赤穂の城と城下町&mdash;赤穂城模型|publisher=赤穂市立歴史博物館、『(収蔵)|accessdate=2022-02-16}}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=宝永元年の赤穂御殿下町絵図(東京大学|journal=赤穂市料編纂所蔵)』など) |year=1983|page=2|naid=10004748294}}</ref><ref>{{cite journal|和書|author=
堀田 浩之|title=姫路城・赤穂城・林田陣屋 荻原一青の描いた城郭絵図 (特集 兵庫の城郭絵図研究 (播磨・淡路編) : 荻原一青の再評価)|journal=歴史と神戸 : 神戸を中心とした兵庫県郷土研究誌|issn=0288-7789|publisher=神戸史学会|date=2021-10|volume=60|number=5|pages=19-31|naid=40022717938}}</ref>が位置した。}}
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|ar_called = 加里屋城{{sfn|中井|2017|page=428}}
|struct = 変形輪郭式海岸平城
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|build_y = [[1648年]]([[慶安]]元年) - [[1661年]]([[寛文]]元年)
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|rulers = 浅野家、永井家、森家
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}}
 
'''赤穂城'''(あこうじょう)は、[[兵庫県]][[赤穂市]]にある[[日本の城]]。江戸時代は[[赤穂藩]](加里屋藩<ref name=":4">{{要出典Cite web|datetitle=2019年8月赤穂城下町跡発掘調査(2003-3・4・5区)現地説明会資料|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/excavation/jokamachi2003-3.html|website=www.ako-hyg.ed.jp|accessdate=2021-12-15|publisher=赤穂市教育委員会文化財課|work=「兵庫県赤穂市の文化財」}}</ref>藩主が暮らした城。城郭は国の[[史跡]]<ref name= "bunka_shi">{{Cite web|title=史跡名勝天然記念物:赤穂城跡(あこうじょうあと)|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/1890|website=kunishitei.bunka.go.jp|accessdate=2021-09-06|publisher=文化庁|work=国指定文化財等データベース}}</ref> に、本丸庭園と二之丸庭園は[[名勝]]<ref name= "bunka_me">{{Cite web|title=史跡名勝天然記念物:旧赤穂城庭園 本丸庭園 二之丸庭園(きゅうあこうじょうていえん ほんまるていえん にのまるていえん)|url=https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/3340|website=kunishitei.bunka.go.jp|accessdate=2021-09-06|publisher=文化庁|work=国指定文化財等データベース}}</ref> に指定されている。別名・加里屋城(かりやじょう)、大鷹城(おおたかじょう){{要出典|date=2019年8月}}。[[日本100名城]]、[[日本の歴史公園100選]]にも選定されている。
[[ファイル:Ako Burganlage.jpg|サムネイル|本丸 2(1)を囲む二之丸 3(2)と隣接する三之丸 A(3)。大手門 B(A=北)を通り、本丸門]](B=南)を抜けると本丸に着く。
|代替文=南から本丸(1)と本丸門(B)、それを囲む二之丸(2)、大手門(A)を抜けると三之丸(3)]]
[[ファイル:Ako Castle03n4272.jpg|サムネイル|本丸南の石垣と堀]]
== 概要 ==
[[江戸時代]]、赤穂藩の政庁が置かれた。
 
赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年(1600年)に築城したと伝わり、後世に「掻上城」(かきあげじょう)後世に呼ばれた<ref name=":0" />。これは絵図や発掘調査から、遺構が現存する後世の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている<ref name=":0">{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/history.html|title=赤穂城にまつわる歴史|accessdate=2019年8月2日|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref><ref name=":1">{{Cite book|和書|title=史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書|date=|year=1984|publisher=赤穂市教育委員会|pages={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}</ref>。その後も池田家に赤穂[[郡代]]として仕えた[[垂水勝重|垂水半左衛門勝重]]や、赤穂藩主となった[[池田政綱]]、[[池田輝興]]によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=赤穂市史|date=|year=1983|publisher=赤穂市|page=|volume=2|pages={{要ページ番号|date=2021年9月}}}}</ref>。
 
正保2年(1645年)に[[浅野長直]]が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、[[大坂の陣|元和偃武]]の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸[[平城]]に分類される。[[縄張り]]は変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側の三之丸は二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲戦を意識した設計となっており、[[十字砲火]]が可能なように[[稜堡]]に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代[[浅野長直|長直]]の時代、浅野家に仕えた[[甲州流軍学|甲州流兵学者]]の[[近藤正純]]によってなされた<ref name=":0" /><ref name=":2" />。
 
またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の[[山鹿素行]]が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺を手直ししたと伝わり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている<ref>{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/excavation/ninomarumasugata.html|title=赤穂城跡二之丸門枡形発掘調査現地説明会資料|accessdate=2019年8月2日|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref>。
 
最終的に寛文元年(1661年)<ref name=":0" />赤穂城は着手から13年かかって完成し、10の隅櫓(すみやぐら)12の諸門があり12基、曲輪(くるわ)の延長は2847[[メートル|m]]に及んだ<ref>{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/shirohistory.html|title=赤穂城とは|accessdate=2019年8月2日|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref>。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。
 
[[明治時代]]前期に内のされると建物は破却、一部の[[石垣]]と[[堀]]のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられた土地の大部分は田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てた。[[1928年旧制中学校|旧制]](昭和3年)から赤穂中学が[[19811928年]](昭和563年)までに設けられて戦後は学制改革を受けて兵庫県立[[兵庫県立赤穂高等学校|赤穂高校]](旧制赤穂中学)の敷地なり称し[[1981年]](昭和56年)まで西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた<ref name=":1" />。
 
大手隅櫓、大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)に古写真{{Sfn|松岡|1980|p=6-14}}を参考に大手隅櫓、大手門(高麗門)が建築されている<ref name=":0" />。1971年(昭和46年)に赤穂城跡が国史跡の指定{{要出典|date=2021年9月}}を受けると、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も<ref name=":5">{{いつCite web|title=「兵庫県赤穂市の文化財」|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/column/akojo.html|datewebsite=www.ako-hyg.ed.jp|accessdate=2021年9月-12-15|publisher=赤穂市教育委員会文化財課}}二之丸庭園の復元整備が続く。本丸には、本丸門や本丸御殿の[[間取り]]に加え、発掘調査で確認された庭園などが復元整備され、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。<br />
*名称:赤穂城跡(あこうじょうあと)
*管理団体:赤穂市
*指定内容:
**(1)国指定史跡、指定年月日:1971年(昭和46年)3月31日。
**(2)国名勝・旧赤穂城庭園、指定年月日:2012年(平成14年)9月20日。本丸庭園to
二之丸庭園(錦帯池)の範囲。
*指定面積:19万405.17[[平方メートル|m<sup>2</sup>]]。</ref>と、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も{{いつ|date=2021年9月}}二之丸庭園の復元整備が続く。本丸には本丸門や本丸御殿の[[間取り]]を示し、発掘調査で確認された庭園などが復元整備されており、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。
 
赤穂城は5万石の石高の割には規模の大きい城である{{要出典|date=2019年8月}}。5層[[天守]]の造営も計画されていた{{要出典|date=2019年8月}}が[[江戸幕府|幕府]]への遠慮か財政難のためか造営されず、天守台のみが今日に残っている。
 
=== 上水道 ===
赤穂城は海岸に近く標高が低いため、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、[[千種川]]の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水していた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ、{{疑問点範囲|日本三大上水道の一つに数えられている|title=出典を補い日本三代一覧に復帰可能か?|date=2021年11月}}{{要出典|date=2021年9月}}。
赤穂城は海岸に近く[[標高]]がほぼ1[[メートル|m]]<ref name=":4" />と低く、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、熊見川([[千種川|現・千種川]])の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水したのは藩主・池田家が治めた1616年([[元和 (日本)|元和]]2年)である。着工の1614年([[慶長]]19年)から指揮は前出の代官(郡代)垂水勝重がとり、山に取水トンネルを掘ると(切山[[トンネル|隧道]])、熊見川の水を導水路で引いた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ{{sfn|八木|1983|loc=「第4節 赤穂上水道の敷設」|pages=}} 、日本三大上水道の一つに数える説もあり<!--<nowiki>{{疑問点範囲| 2021年12月に出典不十分で解決。</nowiki> |title=出典を補い日本三代一覧に復帰可能か?|date=2021年12月}} --><ref name="kyujosuido">{{Cite web|title=旧上水道モニュメント|url=https://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/shisetsu/kanko/kyujosuido.html|website=www.city.ako.lg.jp|work=施設案内 > 観光施設 |date=2021-09-28 (更新)|author=産業振興部観光課観光係|publisher=赤穂市|accessdate=2021-12-15}}</ref>、2003年には城下の居住地区で発掘が進むと、現在の地表(標高2m強)から1mほど地下に江戸時代の生活面が確認された<ref name=":4" />。そのさらに下層は1600年代前半に相当する地層(第3遺構面)で、そこから竹を加工した管や木造の桝(ます)が掘り出され、江戸時代の浅野氏治世以前に、上水道システムがあったと判明した。当代の池田藩主([[:赤穂城#政綱|政綱]]と輝興父子)は旧城内ばかりか、城を見上げる町内へも給水網を整備したことがわかった<ref name=":4" />。この上水道の遺構は整備保存され、歴史的な観光スポットとして公開している{{efn|赤穂市内に点在する江戸時代の井戸「汲出桝」(くみだします)は、例えば旧城下町に相当する[[播州赤穂駅|JR播州赤穂駅]]前の商業施設「赤穂バザール」の前で見学できる(赤穂市加里屋42-7正面)<ref name="kyujosuido" />。}}。
 
赤穂城は[[浅野氏]]の「[[元禄赤穂事件]]」で有名だが、[[池田氏]]にも[[赤穂城#輝興|輝興]]が狂乱し正室などを殺す「[[#正保赤穂事件]]」、赤穂城を預かった[[龍野藩]][[脇坂氏]]時代にも赤穂城に在番した重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す「[[#脇坂赤穂事件]]」{{efn|事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた<ref>{{Cite journal|和書|author= 白峰 旬 (Shiramine, Jun) |title=元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について : 播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より|publisher=[[別府大学]]大学院文学研究科|date=2011-03|journal=別府大学大学院紀要 |number=13|pages=41- 81|issn=1345-0530 |url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk01304|website=repo.beppu-u.ac.jp|accessdate=2021-09-06}}</ref>。}}、[[森氏]]時代にも[[家老]]の藩政の私物化を疑い、[[攘夷論|攘夷派]]の志士たちが森主税(可彝)を暗殺した「[[#文久赤穂事件]]」が起きた{{efn|明治政府はこの{{what|date=2021年9月}}後に「仇討ち禁止令」を制定している{{要出典|date=2021年9月}}。}}。
 
赤穂城は[[浅野氏]]の「[[元禄赤穂事件]]」で有名だが、[[池田氏]]にも[[池田輝興|輝興]]が狂乱し正室などを殺す「[[#正保赤穂事件]]」、赤穂城を預かった[[龍野藩]][[脇坂氏]]時代にも赤穂城に在番した重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す「[[#脇坂赤穂事件]]」{{efn|事件は老中・阿部正武に早飛脚で伝えられた<ref>{{Cite journal|和書|author= 白峰 旬 (Shiramine, Jun) |title=元禄14年の脇坂家による播磨国赤穂城在番について : 播磨国龍野藩家老脇坂民部の赤穂城在番日記の分析より|publisher=[[別府大学]]大学院文学研究科|date=2011-03|journal=別府大学大学院紀要 |number=13|pages=41- 81|issn=1345-0530 |url=http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk01304|website=repo.beppu-u.ac.jp|accessdate=2021-09-06}}</ref> ほか{{full citation needed|date=2021年9月}}。}}、[[森氏]]にも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして[[家老]]の森主税(可彝)を暗殺した「[[#文久赤穂事件]]」{{efn|明治政府はこの{{what|date=2021年9月}}後に「仇討ち禁止令」を制定している{{要出典|date=2021年9月}}。}}が起きた。
 
== 歴史 ==
=== 加里屋城・大鷹城時代 ===
大鷹城{{要出典|date=2019年8月}}
は1452~1455年(享徳年間)、[[岡光広|岡豊前守光広]]が加里屋に「古城」を築城<ref name=":3">{{Cite book|和書|author= 私立赤穂郡教育会 |author2=藤江 忠廉|title=赤穂郡誌. 播州赤穂郡志|publisher=臨川書店|year=1973|ref={{sfnref| 私立赤穂郡教育会、藤江|1973}}|ncid=BN09433997}}</ref>{{要ページ番号|date=2021年9月}}し、この地で初の築城となる{{要出典|date=2019年8月}}。赤穂に[[生駒親正]]が伊勢国神戸から[[1585年]]([[天正]]14年)に入府し、石高は桃山・江戸期を通じて当藩最大の6万石<ref>国史跡赤穂城跡 (兵庫県赤穂市) 公式Webサイト</ref>{{Full citation needed|date=2021年9月}}を与えられたが[[1586年]](天正15年)には讃岐に移され、赤穂一郡は[[宇喜多秀家]]の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから{{要出典|date=2021年9月}}、他郡からの間接統治の可能性も示唆される<ref>宇喜多家文書「宇喜多秀家士帳」</ref>{{Full citation needed|date=2021年9月}}<ref>「豊臣期宇喜多氏の構造的特質」(森脇崇文、2012年)</ref>{{要ページ番号|date=2021年9月}}。宇喜多氏は[[1600年]](慶長5年)に関ヶ原の合戦により改易・流罪となり、[[姫路藩]]主・[[池田輝政]]の弟の[[池田長政 (片桐池田家)|長政]]が赤穂領主に任ぜられると、「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城<ref name=":3" />し、これが赤穂城の前身となる。輝政の次男で[[備前国|備前]][[岡山藩]]主・[[池田忠継|忠継]]の所領となった[[1613年]](慶長18年) 、城に一重の堀・石垣・櫓・門を造営<ref name=":3" />、忠継の弟・[[池田政綱|政綱]]は3万5000石を与えられ[[1615年]](元和元年)に赤穂藩が立藩し、御殿を建てる。その政綱{{Anchors|政綱|輝興}}が[[嗣子]]なく[[1631年]](寛永8年)に死去すると、弟の[[池田輝興|輝興]]が入封してさらに櫓・馬屋を造った。狂乱し刃傷沙汰の咎で正保2年に[[改易]]({{Visible anchor|正保赤穂事件}})され([[1645年]])、[[水谷勝隆]]([[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]])の一時預かりとなった城は同年、[[浅野長直]]を5万3000石で迎える。
* 1452~1455年(享徳年間)、[[岡光広|岡豊前守光広]]が加里屋に「古城」を築城<ref name=":3">{{Cite book|和書|author= 私立赤穂郡教育会 |author2=藤江 忠廉|title=赤穂郡誌. 播州赤穂郡志|publisher=臨川書店|year=1973|ref={{sfnref| 私立赤穂郡教育会、藤江|1973}}|ncid=BN09433997}}</ref>{{要ページ番号|date=2021年9月}}。この地での最初の築城となる{{要出典|date=2019年8月}}。
* [[1585年]](天正14年) 赤穂に[[生駒親正]]が伊勢国神戸から入府する。石高は桃山・江戸期を通じて最大の6万石<ref>国史跡赤穂城跡 (兵庫県赤穂市) 公式Webサイト</ref>{{Full citation needed|date=2021年9月}}。
* [[1586年]](天正15年) 生駒氏は讃岐に移され、赤穂一郡は[[宇喜多秀家]]の所領となる。「宇喜多秀家士帳」に赤穂の石高・居城の記載が無いことから{{要出典|date=2021年9月}}、他郡からの間接統治の可能性も示唆される<ref>宇喜多家文書「宇喜多秀家士帳」</ref>{{Full citation needed|date=2021年9月}}<ref>「豊臣期宇喜多氏の構造的特質」(森脇崇文、2012年)</ref>{{要ページ番号|date=2021年9月}}。
* [[1600年]](慶長5年) 関ヶ原の合戦により宇喜多氏が改易・流罪。
:[[姫路藩]]主・[[池田輝政]]の弟・[[池田長政 (片桐池田家)|長政]]が赤穂領主となり、赤穂城の前身である「掻上城」を赤穂郡加里屋に築城<ref name=":3" />。
* [[1613年]](慶長18年) 赤穂は輝政の次男で[[備前国|備前]][[岡山藩]]主・[[池田忠継|忠継]]の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営される<ref name=":3" />。
* [[1615年]](元和元年) 忠継の弟・[[池田政綱|政綱]]が3万5000石を与えられ赤穂藩が立藩。御殿が造営される。
* [[1631年]](寛永8年) 政綱が[[嗣子]]なく死去し、弟の[[池田輝興|輝興]]が入封。さらに櫓・馬屋を造営。
* [[1645年]](正保2年) 輝興、狂乱し刃傷沙汰の咎で[[改易]]({{Visible anchor|正保赤穂事件}})。城は[[備中国|備中]][[備中松山藩|松山藩]]主・[[水谷勝隆]]預かりとなる。同年、[[浅野長直]]が5万3000石で入封する。
 
=== 赤穂城時代 ===
* [[1646年]](正保3年) 近世城郭建設のため、近藤正純が[[1646年]](正保3年)に設計図を作成{{要出典|date=2019年8月}}し、石材採掘にも取り掛かる。幕府に築城計画を提出
した[[1648年]](慶安元年[[6月17日 (旧暦)|6月17日]]、新暦[[8月5日]])<ref name=":0" />、同年中に城作りが始まる。赤穂藩主・浅野長直は[[1652年]](承応元年)、山鹿素行を赤穂に招き、7ヵ月滞在した山鹿は二の丸周辺の設計を助言した。{{efn|山鹿素行は赤穂藩の江戸屋敷で藩士に兵学を教えていたとする説がある。赤穂市史編纂室は「一次資料である『山鹿素行日記』・年譜に全く記載がない」事を理由に[[大石良雄]]や大石良重・菅谷政利らが山鹿素行から山鹿流を学んだとする説を記さなかった。さらに本説を主張した[[石岡久夫]]の著作において、素行の門弟として[[浅野長直]]に全く言及していない等の疑問点も指摘されている<ref>{{cite book |和書|author=赤穂市史編纂室主幹・三好一行|title=赤穂四十七士列伝|pages={{要出典|date=2022年2月}}|}}</ref>{{Full citation needed |date=2021年9月}}。}}。赤穂城は[[1661年]](寛文元年)に完成し、やがて3代[[浅野長矩]]の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与、旗本の寄合に列するのは[[1694年]](元禄7年)である。兄の長矩が勅使[[饗応役]]に任ぜられ、[[1701年]](元禄14年)に[[江戸城]]中で[[吉良義央]]に斬りつけて刃傷事件を起こすと浅野氏は改易となる。城を預かったは播磨[[龍野藩]]主・[[脇坂安照]]もまた在番中に刃傷事件を起こし、赤穂城内で死傷者を出す({{Visible anchor|脇坂赤穂事件}})と、翌[[1702年]](元禄15年)に[[永井直敬]]が3万3000石で入封、その同年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった([[元禄赤穂事件]])。
* [[1648年]](慶安元年) [[6月17日 (旧暦)|6月17日]](新暦[[8月5日]])に幕府に築城計画を提出、築城開始<ref name=":0" />。
 
* [[1652年]](承応元年) 赤穂藩主・浅野長直の招きを受けた<!--江戸屋敷で藩士に兵学を教えていた--><!--赤穂市史編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に[[大石良雄]]や大石良重・菅谷政利らが山鹿素行から山鹿流を学んだとする説を記していない。本説は[[石岡久夫]]が主張しているが、同著作において素行の門弟として[[浅野長直]]を全く言及していない等の疑問点をも指摘している<ref>{{cite book |和書|author=赤穂市史編纂室主幹・三好一行|title=赤穂四十七士列伝|}}</ref> {{Full citation needed |date=2021年9月}}。 -->山鹿素行が赤穂に7ヵ月滞在し、二の丸周辺の設計を助言した。
連座した長矩の弟・長広は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられるが後に旗本に復した<ref group="注釈">宝永7年(1710年)に長広は、安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広のあとは嫡男の長純が家督を継ぎ、[[浅野長直|長直]]系浅野氏は、安房国で続くことになる。</ref>。[[1706年]](宝永3年)に当代の直敬は[[信濃国]][[飯山藩]]へ転封となると、[[森長直]]が[[備中国]][[#西江原藩|西江原藩]]より2万石で入部。この森家は[[廃藩置県]]までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。
* [[1661年]](寛文元年) 赤穂城が完成する。
 
* [[1694年]](元禄7年) 3代[[浅野長矩]]の弟・長広は播磨国赤穂郡の新田3000石を分与され、旗本の寄合に列する。
幕末に至ると藩政の改革をめぐり、[[1857年]](安政4年)に保守派・革新派の対立が起こって藩内は分裂し、革新派の一部は脱藩して[[長州藩]]へ奔る(はしる)。攘夷派は保守派の[[家老]]・森主税暗殺事件を起こした({{Visible anchor|文久赤穂事件}}、[[1862年]])(文久2年)。
* [[1701年]](元禄14年) 勅使[[饗応役]]に任ぜられた[[浅野長矩|長矩]]、[[江戸城]]中での[[吉良義央]]に対する刃傷事件により浅野氏改易となる。城は播磨[[龍野藩]]主・[[脇坂安照]]預かりとなる。脇坂氏は在番中に刃傷事件を起こし、赤穂城内で死傷者を出す({{Visible anchor|脇坂赤穂事件}})。
 
* [[1702年]](元禄15年) [[永井直敬]]が3万3000石で入封。同年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった([[元禄赤穂事件]])。連座した長矩の弟・[[浅野長広|長広]]は赤穂新田3000石の所領もいったん召し上げられる<ref group="注釈">宝永7年(1710年)に長広は、安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広のあとは嫡男の長純が家督を受け継ぎ、[[浅野長直|長直]]系浅野氏は、安房国で続くことになる。</ref>。
* [[1706年]](宝永3年) 直敬は、[[信濃国]][[飯山藩]]へ転封となり、[[備中国]][[#西江原藩|西江原藩]]より[[森長直]]が2万石で入部。森家は、[[廃藩置県]]までの12代165年間、赤穂藩主としては最も長く在封することになる。
* [[1857年]](安政4年) 藩政の改革をめぐり保守派・革新派の対立が起こり藩内は分裂。革新派の一部は脱藩し[[長州藩]]へ奔る。
* [[1862年]](文久2年) 攘夷派が保守派の[[家老]]・森主税を暗殺する事件が起こる({{Visible anchor|文久赤穂事件}})。
<gallery widths="165" heights="110">
ファイル:Ako-Castle004.jpg|本丸門
ファイル:Ako-Castle005.jpg|塩屋門
ファイル:Ako-Castle006.jpg|三丸大手門(高麗門)と{{visible anchor|二層隅櫓|隅櫓}}<!-- visible anchorを使い、記事内にリンクを貼りましたので、切らないでください。 -->
ファイル:Ako-Castle007.jpg|潮見櫓と二之丸土塀
</gallery>
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=== 近現代 ===
[[ファイル:Ako Castle in 1930s.jpg|サムネイル|1930年代の赤穂城]]
[[1871年]](明治4年)、[[廃藩置県]]により赤穂県となると、[[廃城令]]発布([[1873年]])を受けて[[飾磨県]]権県令は[[1876年]](明治9年)に城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却され、[[千種川]]の洪水が[[1892年]](明治25年)に発生すると災害復旧と川のつけかえ(流路変更)のため、二之丸門から清水門までの石垣の石を転用して護岸を築く。城郭の石垣は破壊がいっそう進み、また堀は大手門枡形の南側と北方多門にかけて埋め戻し、[[1897年]](明治30年)には大石神社の建立が始まった。
* [[1871年]](明治4年) [[廃藩置県]]により赤穂県となる。
 
* [[1873年]](明治6年) [[廃城令]]により廃城となる。
本丸跡は、旧制の県立中学校の敷地にあてて[[1928年]](昭和3年)に開校する。
* [[1876年]](明治9年) [[飾磨県]]権県令、赤穂城売却の入札を行う。以後、順次建築物が破却される。
 
* [[1892年]](明治25年) [[千種川]]の洪水発生。災害復旧と千種川流路変更のため、二之丸門から清水門までの石垣を護岸築石に転用。城郭石垣の破壊が進む。
城の建造物は[[1935年]](昭和10年)に大手門前の堀と太鼓橋を復元したのち、本丸の外堀は第二次世界大戦を挟んで[[1953年]](昭和28年)を待って復元される。続いて大手隅櫓と大手門(高麗門)を[[1955年]](昭和30年)に再建するが、[[:赤穂城#隅櫓|隅櫓]]の一部は明治期に撮影された形状から変わった。
* [[1897年]](明治30年) 大石神社建立のため、大手門枡形の南側と北方多門を埋める。
 
* [[1923年]](大正12年) [[大石良雄|大石内蔵助]]邸が国の史跡に指定される。
本丸跡の県立赤穂高校(旧制赤穂中学校)は、城が国の史跡に指定されてから10年後を経た[[1981年]](昭和56年)に御崎へ移転させ、本丸庭園の復元・整備は[[1990年]](平成2年)に完成。また大手門枡形、本丸門および同枡形と本丸厩口門の再建は[[1996年]](平成8年)である。[[2010年]](平成22年)に復元された庭園の西仕切門は、高さ約4.6&nbsp;[[メートル|m]]、幅約3.0&nbsp;m。総工費は門につながる土塀約10.5&nbsp;m分も含めて約3200万円と報道された<ref>{{cite news|和書|url=http://www.ako-minpo.jp/news/3424.html |title=赤穂城庭園「西仕切門」の復元完成|newspaper=赤穂民報|date=2012-04-14}}</ref>。二之丸庭園は[[2016年]](平成28年)に部分公開を始めている<ref>{{cite news|和書|url=http://www.asahi.com/articles/ASJCZ3TQVJCZPIHB00P.html |edition=兵庫|title=赤穂城の二之丸庭園、13日から部分公開|newspaper=朝日新聞|date=2016-12-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161220033603/http://www.asahi.com/articles/ASJCZ3TQVJCZPIHB00P.html|archivedate=2016-12-20}}</ref>。
* [[1928年]](昭和3年) 本丸に兵庫県立赤穂中学校を開校。
 
* [[1935年]](昭和10年) 大手門前の堀と太鼓橋を復元。
== 史跡、名勝 ==
* [[1953年]](昭和28年) 本丸の外堀を復元。
[[大石良雄|大石内蔵助]]邸は[[1923年]](大正12年)に国の史跡に指定。赤穂城は[[1971年]](昭和46年)に国の史跡<ref name= "bunka_shi " />に指定された。
* [[1955年]](昭和30年)大手隅櫓と大手門(高麗門)を再建。明治期に撮影された隅櫓の形状と一部異なる。
 
* [[1971年]](昭和46年) 赤穂城が国の史跡<ref name= "bunka_shi " /> に指定される。
1990年代に門(本丸門、本丸厩口門)ならびに枡形(大手門、本丸門)あるいは本丸庭園の復元・整備が進むと、旧赤穂城庭園は[[2002年]](平成14年)に国の名勝に指定された(本丸庭園および二の丸庭園)<ref name= "bunka_me " />。財団法人[[日本城郭協会]]により[[2006年]](平成18年)に「[[日本100名城]](60番)」に選ばれている{{要出典|date=2021年9月}}。
* [[1981年]](昭和56年) 赤穂高校を御崎へ移転させる。
* [[1990年]](平成2年) 本丸庭園を復元・整備。
* [[1996年]](平成8年) 大手門枡形、本丸門および枡形、本丸厩口門が再建される。
* [[1999年]](平成11年) 本丸門が[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[元禄繚乱]]』の撮影に使用される。
* [[2002年]](平成14年) 旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝<ref name= "bunka_me " /> に指定される。
* [[2006年]](平成18年) 財団法人[[日本城郭協会]]による[[日本100名城]](60番)に選ばれた{{要出典|date=2021年9月}}。
* [[2010年]](平成22年) 庭園の西仕切門が復元された。高さ約4.6メートル、幅約3.0メートル。門につながる土塀約10.5メートルも含めて総工費は約3200万円<ref>[http://www.ako-minpo.jp/news/3424.html 赤穂城庭園「西仕切門」の復元完成]:赤穂民報2012年4月14日</ref>。
* [[2016年]](平成28年) 二之丸庭園の部分公開を開始<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASJCZ3TQVJCZPIHB00P.html 兵庫)赤穂城の二之丸庭園、13日から部分公開]</ref>。
 
<!-- いったんコメントアウト。別の端に述べてあり、NHKのみ別記する必要はないため。/ この間に[[1999年]](平成11年) 本丸門が[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]『[[元禄繚乱]]』の撮影に使用される。 -->
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ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan05bs3.jpg|二の丸門
ファイル:Ako-Castle001.JPG|本丸表門(復元)
ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan12s3.jpg|本丸表門枡形内部
ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan26n.jpg|本丸厩口門
ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan16bs5.jpg|本丸御殿遺構
ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan23n.jpg|本丸庭園
ファイル:141115 Ako Castle Ako Hyogo pref Japan24s3.jpg|奥御殿坪庭 
</gallery>
==== 光の天守閣(ライトアップ) ==== <!-- 下記「本丸」節から見出しにリンクさせています。見出しを修正した場合は、リンク先も訂正願います。 -->
2006年(平成18年)から赤穂[[日本青年会議所|青年会議所]]が[[赤穂義士祭]]奉賛は2006年(平成18年)より、[[赤穂義士祭]]が行われる[[12月14日]]までのに先立つ数日間、にわたり天守台でライトアップを行なってきた。天守風の外観になるように建設を模した足場用の[[鋼管]]組み築き、電を配夜間点灯させたものである<ref name="minpo2008">[{{cite news|和書|url=http://www.ako-minpo.jp/news/1433.html |title="光の天守閣"今年は4層造り] |newspaper=[[赤穂民報]]|date=2008-12-10}}</ref>< <ref name="minpo2009">[http://www.ako-minpo.jp/news/2923.html 「義士に届け、光の天守」今年は5層] 赤穂民報2009年12月8日</ref>。年々、天守の高さが高くなっていたが2009年以降は5層となっている<ref>[http://all-ako.com/blog/309 Vol.23 幻の天守閣!さてさて、今年は何色に輝くでしょう?]</ref><ref>[http://all-ako.com/blog/wp/wp-content/uploads/2013/07/change_img.jpg 忠臣蔵ウイークの目玉である幻の天守閣!]</ref>。本来、赤穂城の天守台天守を建てたことはなく、い。また歴史的な資料を参考にしているわけではない。
[[ファイル:赤穂城跡・天守閣イルミネーション - panoramio - mikeneko.jpg|サムネイル|天守台に組まれた「光の天守閣」]]
{| class="wikitable " style="width:50%"
125 ⟶ 119行目:
|[[2009年|2009]](H21)||5||2.2||約30||総鋼管12&nbsp;t <ref name="minpo2009" />
|-
|2010(H22)||5||3.0||約28||<ref>[{{cite news|和書|url=http://www.ako-minpo.jp/news/4397.html |title=今年も「光の天守閣」築城中]|newspaper=赤穂民報|date=2010年[[-11-29日]]}}</ref>
|-
|[[2011年|2011]](H23)||5||3.0||約28||<ref>[{{cite news|和書|url=http://www.ako-minpo.jp/news/5878.html |title=月と競演"光の天守閣”] |newspaper=赤穂民報|date=2010年[[-12月7日]]-07}}</ref>
|-
| 2012 || || || ||
133 ⟶ 127行目:
| 2013 || || || ||
|-
|[[2014年|2014]](H26)|| || || || 天守台に[[プロジェクションマッピング]]を投影<ref>[{{cite news|和書|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201412/0007579200.shtml |title=赤穂城跡でプロジェクションマッピング試写 義士祭で披露]、|newspaper=[[神戸新聞]]|date=2014-12}}</ref>。
|-
| [[2015年|2015]](H27)|| || || || 前年に続き光の天守と共に<ref>[{{cite news|和書|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201512/p1_0008618150.shtml |title=忠臣蔵ウイーク5日開幕 幻の天守閣も登場 赤穂]、[[|newspaper=神戸新聞]]、|date=2015-12月。}}</ref> 天守台にプロジェクションマッピングを投影<ref>[{{cite news|和書|url=http://www.kobe-np.co.jp/news/seiban/201512/0008642222.shtml |title=赤穂城に動く浮世絵投影 忠臣蔵の名場面CG再現]、|newspaper=神戸新聞|date=2015-12月。}}</ref>。
|-
|
147 ⟶ 141行目:
=== 復元・整備施設 ===
{{div col}}
==== 三の丸 ====
* 本丸高麗門(こうらいもん) - 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴([[狭間]])が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
* 太鼓橋 - 正門である三之丸の「[[大手門]]」へかかる橋。 [[1935年]](昭和10年)に建築。木造による復元ではない。
* 本丸櫓門(やぐらもん) - 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定日に一般公開される<ref>{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/map/map_g.html|title=赤穂城跡のみどころ|accessdate=2019年8月3日|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref>。
* 大手門(高麗門)- 大手門の一部。 1955年(昭和30年)に建築{{efn|江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、現在は失われている。}}。
* [[天守台]] - 天守が築かれた事はないが、[[#光の天守閣(ライトアップ)|#光の天守閣]]でプロジェクションマッピングが投影される。
* 枡形[[虎口]](ますがたこぐち{{efn|「こぐち」には狭い道・狭い口という意味がある。「ここう」と読むと「危険な場所」。}})・番所{{Efn|番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたった。}} - 大手門を入ると右に折れ曲がる入口。番所跡に模擬[[番屋]](案内所)が立つ。
* 本丸御殿跡 - 本丸庭園は国の名勝に指定。コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。
* 大手(高麗門)隅櫓 - 三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して1950年(昭和30年)に建築されたもの。二層の[[隅櫓]]を設置{{efn|「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が番所跡に掲示してある。}}。
* 刎橋門(はねばしもん)跡 - 石垣の一部は破壊された痕を残す。内堀の直前に柵が付けられている。
 
==== 二の丸 ====
* 二ノ丸土塁
158 ⟶ 154行目:
* 水手門 - 船着場跡と四脚門の礎石がある。
* 西仕切門
==== 三の丸 ====
* 太鼓橋 - 正門である三之丸の「[[大手門]]」へかかる橋。 [[1935年]](昭和10年)に建築。木造による復元ではない。
* 本丸高麗門(こうらいもん) - 赤穂城本丸門の一部。城壁上の土塀に丸、三角、四角の穴([[狭間]])が開く。正面に「赤穂城址」の石碑。
* 大手門(高麗門)- 大手門の一部。 1955年(昭和30年)に建築{{efn|江戸時代にはこの奥に櫓門が存在したが、失われた。}}。
* 本丸櫓門(やぐらもん) - 同上。石垣の上に一層櫓。内部は特定日に一般公開される<ref>{{Cite web|url=http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/map/map_g.html|title=赤穂城跡のみどころ|accessdate=2019年8月3日|publisher=赤穂市教育委員会}}</ref>。
* 枡形[[虎口]](ますがたこぐち{{efn|「こぐち」は狭い道・狭い口の意味。「ここう」と読むと「危険な場所」。}})・番所{{Efn|番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたった。}} - 大手門を入ると右に折れ曲がる入口。番所跡に模擬[[番屋]](案内所)が立つ。
* [[天守台]] - 天守が築かれた事はないが、[[#光の天守閣(ライトアップ)|#光の天守閣]]でプロジェクションマッピングが投影される。
* 大手(高麗門)隅櫓 - 三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して1950年(昭和30年)に建築。二層の[[隅櫓]]を設置{{efn|番所跡に「明治期に撮影された隅櫓の形状とは異なる」旨の説明と当時の写真が掲示してある。}}。
* 本丸御殿跡 - 本丸庭園は国の名勝に指定。コンクリート盤上に部屋の間仕切りを示し、坪庭跡には中高木を植栽。
* 刎橋門(はねばしもん)跡 - 一部が破壊された石垣が残る。内堀の直前に柵が付けられている。
{{div col end}}
== 赤穂城でロケが行われた映画・ドラマ ==
182 ⟶ 177行目:
== 支城 ==
 
* [[三日月陣屋]] - 森家赤穂藩森家の分家・[[三日月藩]]の陣屋。
 
== 周辺の文化施設・観光名所 ==
;城内の指定文化財<ref name=":5" />
* [[大石邸長屋門]] - 良雄が出入りした当時のものは江戸期に火災で焼失しており、現在の建物は復元{{efn|解説板に「老朽甚だしく、昭和期に、総工費三、一三八万余円をかけて復元」と説明。赤穂義士会。}}。
 
* [[近藤源八跡長屋門]] - 源八使用時の門は破却されたが、18世紀以降に長屋門が再建されたと推察される{{要出典|date=2021年9月}}。天井・瓦などの一部以外は復元{{efn| 案内板によると「簀子野地天井(すのこのじてんじょう)などを残し、平成13年(2001年)に解体復元」した。赤穂市教育委員会。}}。
*国史跡 '''大石良雄宅跡'''{{efn|大石良雄宅跡(赤穂大石神社所有)の国史跡指定は1923年(大正12年)3月7日、面積3,796.12m<sup>2</sup>。}}
* [[大石神社|赤穂大石神社]] - 大石邸庭園、義士宝物殿。
**[[大石邸長屋門]] - 現在の建物は復元{{efn|「老朽甚だしく、昭和期に、総工費3,138万余円をかけて復元」<ref>「大石邸長屋門」解説板、赤穂義士会。</ref>。}}。良雄が出入りした往時の門は江戸期に焼失。
**[[大石神社|赤穂大石神社]] - 大石邸庭園、義士宝物殿。1911年(大正元年)創建。
* 国名勝 '''旧赤穂城庭園'''(赤穂市所有、本丸庭園と二之丸庭園){{efn|旧赤穂城庭園の国名勝指定は2012年(平成14年)9月20日、面積2万4912.58m<sup>2</sup>。}}
* 市指定文化財 '''近藤源八宅跡[[長屋門]]'''{{efn|近藤源八宅跡(赤穂市所有、長屋門)の市指定文化財指定は1998年(平成10年)4月27日。}} - 天井・瓦などの一部以外は復元{{efn|案内板によると「簀子野地天井(すのこのじてんじょう)などを残し、平成13年(2001年)に解体復元」した。赤穂市教育委員会。}}。近藤源八が使用した門は破却され、現存の長屋門は18世紀以降の再建と推察される{{要出典|date=2021年9月}}。
 
;同城内の文化施設<ref name=":5" />
* [[赤穂市立歴史博物館]] 主題は「塩と義士の館」<ref name=":5" />
* 三之丸跡
**花見広場 当時の遊水池を活用し、200本超の桜を植栽して整備<ref name=":5" />。
**米蔵跡休憩舎<ref name=":5" />。
*城内
**武家屋敷公園 三之丸清水門から入ると左手の建物。外観は勤番の侍が寝起きした屋敷に似せてあり、往時の城内を想像させる<ref name=":5" />。
 
;周辺の見どころ
* [[花岳寺]] - 義士宝物館
* [[御崎]] - [[福浦海水浴場]]
* [[赤穂市立歴史博物館]]
* [[御崎]] - [[伊和都比売神社]]、[[福浦海水浴場]]、*[[赤穂温泉]]
**[[伊和都比売神社]]
* [[赤穂市立美術工芸館]]([[赤穂市立田淵記念館]])、[[田淵氏庭園]](国の名勝{{要出典|date=2021年9月}})
* [[兵庫県立赤穂海浜公園]]、[[赤穂市立海洋科学館]]
 
;博物館、美術館
* [[赤穂市立美術工芸館]]([[赤穂市立田淵記念館]])
**[[田淵氏庭園]](国の名勝{{要出典|date=2021年9月}})
* [[赤穂市立海洋科学館]]
* [[赤穂市立民俗資料館]]
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2021年9月}}
主な執筆者名、または編者、出版者の50音順。<!-- 脚注書式に合わせるため、執筆者名順を採用、発行年順に並べないでください。-->
 
各項目内は主な執筆者または発行者の順。
* {{Cite book|和書|author= 史跡赤穂城跡本丸発掘調査団(編)|series=赤穂市文化財調査報告書, 1,5,18|title=史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書|date=|year=1984|publisher=赤穂市教育委員会|ref={{sfnref| 赤穂市教育委員会 |1984}}|pages=|ncid= BA42157013}}
 
** 編集はそれぞれ第2編が赤穂城跡調査会、史跡赤穂城跡本丸発掘調査団、第3編は赤穂市教育委員会が担当。
'''城郭と城下'''
* {{Cite book|和書|author= 私立赤穂郡教育会 |author2=藤江 忠廉|title=赤穂郡誌. 播州赤穂郡志|publisher=臨川書店|year=1973|ref={{sfnref| 私立赤穂郡教育会、藤江|1973}}|ncid=BN09433997}}{{要ページ番号|date=2021年9月}}
* {{Cite book|和書|author= 史跡赤穂城跡本丸発掘調査団(編)|series=赤穂市文化財調査報告書, 1, 5, 18|title=史跡赤穂城跡本丸発掘調査報告書|date=|year=1984|publisher=赤穂市教育委員会|ref={{sfnref| 赤穂市教育委員会 |1984}}|pages=|ncid= BA42157013}}
** 第2編 赤穂城跡調査会と史跡赤穂城跡本丸発掘調査団(編)。
** 第3編 赤穂市教育委員会(編)はす。
* {{cite book|和書|author=熊田葦城|series=日本史蹟大系|volume=14|publisher=[[平凡社]]|year=1936|title=赤穂城址、加里屋|pages={{要ページ番号|date=2022年2月}}|}}
* {{Cite book|和書|author= 私立赤穂郡教育会 |author2=藤江 忠廉|title=赤穂郡誌. 播州赤穂郡志|publisher=臨川書店|year=1973|ref={{sfnref| 私立赤穂郡教育会、藤江|1973}}|ncid=BN09433997|pages={{要ページ番号|date=2021年9月}}|}}
* {{Cite book|和書|editor=西ヶ谷恭弘|title=定本 日本城郭事典|publisher=[[秋田書店]]|year=2000|ref={{sfnref|西ヶ谷|2000}}|pages=283-285}}{{ISBN2|4-253-00375-3}}。
* {{Cite book|和書|editor=兵庫県高等学校教育研究会歴史部会|title=新版 兵庫県の歴史散歩 |volume=下|series=新全国歴史散歩シリーズ|publisher=[[山川出版社]]|year=1991|ref={{sfnref| 兵庫県高等学校教育研究会歴史部会 |1991}}|pages=114-115}}{{ISBN2|4-634-29580-6}}
*{{cite book|和書|author=松岡秀夫(編)|chapter=赤穂城物語|title=写真集明治大正昭和赤穂|location=東京|publisher=国書刊行会|series=ふるさとの想い出134|year=1980|ref={{sfnref|松岡|1980}}|pages=6-14}}
{{div col||30em}}
*{{cite book|和書|author=松岡秀夫(編)|chapter=赤穂城物語|title=写真集明治大正昭和赤穂|location=東京|publisher=国書刊行会|series=ふるさとの想い出134|year=1980|ref={{sfnref|松岡|1980}}|pages=6-14}}
** 元禄時代赤穂城之図、同城内侍屋敷図
** 「元禄時代赤穂城本丸之図」、「同城水筋侍屋敷
** 「赤穂城本丸内水筋図」
** 天守閣の模型
** 空から見た赤穂城址
** 櫓大手門角櫓とその再建された姿後の写真あり)、潮見櫓
** 門塩屋門、二の丸門、大正時代の大手門、本丸門。武家の長屋門(大石内蔵助屋敷
** 本丸址に建った中学校本館。
{{div col end}}
 
== 出版物 ==
管理者の赤穂市による。発行順。
 
'''城と町'''
*『赤穂城絵図展 : 絵図にみる城と城下町のうつりかわり』赤穂市立歴史博物館(編)、2000年。開館10周年記念、赤穂城築城開始350年記念の特別展図録。1999(平成11)年度。2000年(平成12年)2月11日-同3月20日。{{NCID|BA45482597}}。
 
'''庭園'''
* 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『名勝旧赤穂城庭園二之丸庭園整備概要報告書』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書〉
** 第1部〈第68号〉、2008年。
** 第2部〈第77号〉、2013年。
** 第3部〈第90号〉、2019年。
* 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『赤穂城攻略本』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書 ; 93〉、2020年。
 
== 関連項目 ==<!-- 脚注が多いため、変則的に見出しを前倒しに表示。 -->
* [[岡豊前守|岡光広]] - 赤穂城<sup>※</sup>を最初に築いた武将(※=当時の名称はかりや城表記は複数あり)を最初に築いた武将
* [[三日月陣屋]]
* [[森岡昌純]] - 赤穂城を破却した飾磨県の権県令
226 ⟶ 258行目:
{{reflist|30em}}
 
<!--
== 関連資料 ==
<nowiki>== 関連文献 ==</nowiki>ノートページに転記のため、いったんコメントアウト。
本文に使用していない資料。各項目内は発行年順。
 
'''城郭と城下'''
* 天川友親(編)『播陽萬寶智恵袋 51巻 (存50巻)』、天川友親(自筆)、宝暦2年-(1752年)-。{{NCID| BB27153160}}。しさ注記:『播陽萬寶智恵袋 一(~五十、目録)』、天川友親自筆稿本。
**『巻之33: 播州赤穂郡志』
**『巻之36: 播州赤穂郡志』
* 藤江忠廉「播州赤穂郡志」『西播史談会々報』通第5号、矢野村(兵庫県):西播史談会、1948年。{{NCID|BA87334348}}。筆者による写本『赤穂郡志』について。末尾に「播州赤穂郡志一巻」と記入。別題『播州赤穂郡志』。
 
* 熊田葦城『日本史蹟大系』第14巻、平凡社、1936年。部分タイトル:赤穂城址、加里屋。
* 粟井ミドリほか(著)平井漠、広山尭道(監修)『目で見る赤穂・相生の100年:赤穂市・相生市・上郡町・佐用町・上月町・南光町・三日月町』岐阜:郷土出版社、1994年。
** 明治時代(赤穂城、森時代、最後の藩主、伊藤博文の視察記念)
** 昭和戦後(赤穂城大手門跡、赤穂城堀の浚渫)
 
*『赤穂城絵図展 : 絵図にみる城と城下町のうつりかわり』赤穂市立歴史博物館(編)、2000年。1999(平成11)年度特別展図録。開館10周年記念、赤穂城築城開始350年記念、2000年(平成12年)2月11日-同3月20日。{{NCID|BA45482597}}。%?
* 苅谷勇雅、西村幸夫(編著)「1 武家を中心とした町並み §赤穂市 赤穂〔兵庫県〕」『日本の町並み : 歴史文化遺産』上巻、山川出版社、2016年、82頁。
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* 中井均(監修)「122、加里屋古城 赤穂市」『〈図解〉近畿の城郭』城郭談話会(編)、東京:戎光祥出版、2017年、428頁。
 
'''庭園'''
* 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『名勝旧赤穂城庭園二之丸庭園整備概要報告書』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書〉
** 第1部〈第68号〉、2008年。
** 第2部〈第77号〉、2013年。
** 第3部〈第90号〉、2019年。
* 赤穂市教育委員会生涯学習課(編)『赤穂城攻略本』赤穂市教育委員会生涯学習課〈赤穂市文化財調査報告書 ; 93〉、2020年。
 
== 外部リンク ==
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{{Commonscat|Ako Castle}}
* {{official website|http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo}} - 赤穂市
:*[http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/map/kariyamap.html 城と周辺のイラスト地図](加里屋地区マップ)
* {{国指定文化財等データベース|401|3340|旧赤穂城庭園本丸庭園二之丸庭園}}
* {{国指定文化財等データベース|401|1890|赤穂城跡}}
* [http://www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/ 赤穂城跡公式Webサイト]
 
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{{日本100名城}}