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最初に参加した[[国鉄C53形蒸気機関車|C53形]]の開発では[[グレズリー式連動弁装置|グレズリー式]]そのものが欠陥だらけの設計であること<ref>What were the investment dilemmas of the LNER in the inter-war years and did they successfully overcome them? William Wilson 著 [[Railway and Canal Historical Society]]発行 2020年</ref><ref>Report on "2 to 1" Gresley valve gear on L.N.E.R. 3-cylinder locomotives [[:en:Ernest_Stewart_Cox|アーネスト・スチュワート・コックス]]著 1942年</ref>に加え工作不良により短命に終わり<ref>もっとも1925年に米国で建造され1943年から47年にかけて2気筒Wabash class P1に改造された3気筒K-5 classの例もありグレズリー式機関車としてみると短命とは言い難い</ref>、設計主任を務めた最初の[[車輪配置 4-6-2|パシフィック機]]である[[国鉄C54形蒸気機関車|C54形]]も[[空転]]しがちで不評を買い、しかも製造から15年前後で主要部の[[鋳鋼]]製部品に多くの[[亀裂]]が発生して早期[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった車両が全体の半分近くを占める<ref>『国鉄蒸気機関車史』p.83</ref>など、看過できないほどに重大な失策が幾つもあった(ただし、責を問われることはなかった)。
 
設計主任としての代表作とされ、当人も後に「会心の出来」と評した[[貨物列車|貨物]]用機関車「デコイチ(またはデゴイチ)」こと[[国鉄D51形蒸気機関車|D51形]]も[[大量生産]]され全国に普及したが、島が設計を担当した初期形は構造面での問題を多数抱えていた{{refnest|group=注|初期形D51はボイラーの重心が著しく後方に偏っていて、しかもその傾向を助長するような補機配置であったことなどから[[駆動輪|動軸]]重のバランスが著しく悪く、列車牽き出し時に空転が頻発し、さらに[[軸重]]バランスの悪化の辻褄合わせで[[操縦席|運転台]]の寸法を切り詰め、しかも[[炭水車|テンダー]]の石炭すくい口の位置が焚口に近すぎるなど[[乗務員]]に劣悪な環境での乗務を強いたことから、勾配線を担当する各機関区からはD51形に代えて前世代の[[国鉄D50形蒸気機関車|D50形]]の配置が要求される、という形で半ば公然と受け取りを拒否された史実がある。担当機関区では、D50で勾配区間での立ち往生や逆行を頻発させており<ref>[https://www.rikou.ryukoku.ac.jp/images/journal62/RJ62-03.pdf 続・滋賀の技術小史]</ref>、D50機関車2両が牽引する列車が立ち往生し全員が窒息して重体、12名が昏倒、3名(5名とも)の死者が出ており空転は看過できない死活問題であった。<ref>[https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1212/07/news013_3.html 杉山淳一の時事日想 鉄道のトンネルは、安全なのか]</ref>}}<ref>『国鉄蒸気機関車史』、pp.115-117</ref>。批判されることの多い狭い運転台であるが、D50の運転室はボイラーとの重なりが多く火室や焚口の熱や煤が逃げにくく、D51では最低限のスペース<ref>蒸気機関車のすべて p.193</ref>と新鮮な空気と冷気の出る空気清浄機<ref>蒸気機関車D51大辞典 p.158</ref>でこれらに対応することになっていた。島の海外視察で後任の主任設計者となった[[細川泉一郎]]によって大幅な設計変更が実施され(それでも軸重バランスの問題は完全解決に至っていない)、当初の仕様よりも軸重の増大を許容し[[死重]]を追加搭載するようになってようやく本格的な大量生産が開始されている。このD51形は特に心臓部であり島の基本設計がほぼそのまま最後まで踏襲されたボイラーの設計について、(D50形と比較して)「ボイラーのガス・サーキット([[燃焼ガス]]通路)に関しては、なんら進歩が見られない」と酷評する[[鉄道ファン|マニア]]も存在する<ref>『国鉄蒸気機関車史』p.116</ref>。もっとも、これは当時の工業水準を基にした堅実な造りであり<ref>『栄光の日本の蒸気機関車』p.77</ref>、[[1938年]]からは年100両越えの大量生産も記録している<ref>『D51「"デゴイチ"鉄路の千両役者」』p.29</ref>。
 
島の担当した蒸気機関車で成果を挙げたのは大形機ではなく、[[国鉄C10形蒸気機関車|C10形]]・[[国鉄C11形蒸気機関車|C11形]]・[[国鉄C12形蒸気機関車|C12形]]と3形式続けて設計主任を担当した一連の小形[[制式名称|制式]]機シリーズの設計においてであり、特にC12形ではボイラー主要部組み立てへの[[電気溶接]]構造の採用や、主[[台枠]]前部への大型[[鋳物]]部品の採用など、新しい設計に挑戦して成功しており、D51形よりもむしろこのC12形こそが彼の「会心の作」と評されることもある<ref>『国鉄蒸気機関車史』pp.110-111</ref>。