「レパントの海戦」の版間の差分

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'''レパントの海戦'''(レパントのかいせん)は、[[1571年]][[10月7日]]に起こった、[[ギリシャ]]の[[コリンティアコス湾|コリント湾]]口の[[レパント]]沖での、[[オスマン帝国]]海軍と、[[教皇領]]・[[スペイン帝国]]・[[ヴェネツィア共和国]]の連合海軍による[[海戦]]である<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/レパントの海戦-661870 |title = デジタル大辞泉の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-18 }}</ref>。
 
[[オスマン帝国]]の東地中海への進出に対してそれまで消極的な対応をしていた[[スペイン王国]]は、旧[[グラナダ王国]]での隠れイスラム教徒が生活条件の悪化により反乱を起こし(アルプハーラスの反乱)、オスマン帝国への支援を求めた事で自国の安全保障上看過できなくなった。そこで支配下の[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]や[[イタリア]]の諸都市、[[マルタ騎士団]]等から最大限の戦力を集めた。また、教皇領の海軍にはスイス傭兵やフランスからの志願騎士も参加した。<ref name=shiono>{{Cite |title = 『レパントの海戦』 |author = 塩野七生 |publisher = 新潮文庫}}</ref>
 
一方、元々海運国ではなかったオスマン側は北アフリカの海賊の頭目をアレクサンドリアやアルジェ、チュニスといった土地のパシャ(総督)に任命し、海戦の度に召集していた。<ref name=shiono></ref><br><br>
この海戦は西[[ヨーロッパ史]]において大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。また、オスマン側の敗戦がギリシャとアルバニアでの蜂起を誘発し、バルカン半島での支配も一時揺るがすこととなった。<ref name=parker></ref>レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。<ref name=shiono></ref>
 
この海戦は西[[ヨーロッパ史]]において大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。また、オスマン側の敗戦がギリシャとアルバニアでの蜂起を誘発し、バルカン半島での支配も一時揺るがすこととなった。<ref name=parker></ref>レパントの海戦は、ガレーが主力を成す大海戦としては最後であることが知られている。<ref name=shiono></ref>
 
== 背景 ==
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==戦闘の経過==
カトリック教国の連合艦隊(以下「連合艦隊」という。)は300隻からなり、有能な指揮官[[ドン・フアン・デ・アウストリア]](スペイン王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の庶弟)によって指揮されていた。オスマン帝国の艦隊(以下「オスマン艦隊」という。)側は、{{仮リンク|メジンザード・アリ・パシャ|tr|Müezzinzade Ali Paşa}}に率いられた285隻であった。両軍とも大多数を[[ガレー船]]が占めていた。カトリック連合側には疾病の流行により若干の戦力の減少があり、オスマン側は疾病に加え9月中旬の帰投予定が延長されるなど長期の活動による必需品と武器弾薬の補給欠乏によって戦力の減少と士気の低下を招いていた。
 
===開戦の状況===
連合艦隊側では総司令官ドン・フアンが小舟で各艦に激励にまわっていた。
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*[[プレヴェザの海戦]]
*[[フェルナン・ブローデル]]『地中海』
*[[塩野七生]]『レパントの海戦』 ISBN 410309608X
*[[河惣益巳]]『[[サラディナーサ]]』