「長池徳士」の版間の差分

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入団後は体が硬く、プロでは無理との烙印を押されたが、柔軟体操によって克服。当初はプロのスピードについていけず、特に内角が全く打てなかった。しかし、「[[ダリル・スペンサー|スペンサー]]と並ぶ日本人のスラッガーを作りたい」という[[西本幸雄]]監督の要請により[[青田昇]]コーチが指導し、徹底した内角打ちの練習が行われた。最初は引っ張れないどころか当たりもせず、ムキになって詰まってばかりで右の掌が腫れあがったという<ref name="GoudaRetsuden" /><ref name="HankyuOugonNoRekishi">『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』([[ベースボール・マガジン社]])における[[加藤秀司|加藤英司]]との対談より</ref>。そんな時、青田コーチが「ボールの内にグリップを入れて、内側から打て」とアドバイスし、それを会得するために練習を繰り返しているうちに'''左肩にアゴを乗せ、腕を大きく後ろに引いて大きくスタンスをとる独特のフォーム'''が生み出された。このフォームは長池の代名詞となった。これは外角のスライダーを打ちにいく際、正面を向いている内にそうなったという。打席では基本的に本塁打にできる打球だけを狙い、外角の球は本塁打にできなかったため、内角を意識するようになった。
 
1年目の[[1966年]]は開幕戦で七番打者、右翼手として起用されるが、なかなか調子が上がらず低迷。しかし8月には[[中堅手]]に定着し、9月からは四番打者に回る。翌[[1967年]]は、開幕から四番打者として起用され、6月には東映の[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]・南海の[[杉浦忠]]から2試合に跨って4打席連続本塁打を放つなど活躍。同年の[[1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第2戦では[[小川健太郎]]から3点本塁打を放ち、[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得、青田の指導と長池の努力が実ったシーズンになった。最終的にシーズンを通して129試合に出場して「27本塁打・78打点」を記録。打線を引っ張り、阪急の初優勝に貢献した。優勝決定試合では胴上げされ、歓喜のビールかけでは満面の笑みで青田コーチにビールをかけた。苦手だった内角打ちも「絶品」と言われるほど得意となり、今も長池は長距離打者としての自身のことを「青田さんの作品」と称している。ただし、青田は「僕が用事があると言っても長池は帰してくれなかった。1人だけ見ているわけにはいかないからアドバイスしたら離れるんだけど、すぐ『見てくれ』と引き戻されたり。僕が作ったというより、長池自身が努力したんよ」と語っている<ref name="GoudaRetsuden"/>。強肩でも知られ、同年は12捕殺を記録している。同年の[[読売ジャイアンツ|巨人]]との[[1967年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも全6試合に四番打者として起用されるが、23打数4安打と真価を発揮できなかった。翌[[1968年]]は打率が低迷するものの、30本塁打を記録しリーグ連続優勝に貢献。同年の巨人との[[1968年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では再度日本一を逸するものの、16打数6安打8打点3本塁打と打ちまくり、シリーズ敢闘選手賞を獲得した。
 
[[1969年]]は[[矢野清]]が開幕から四番打者に座るが不調が続き、8月には長池が四番に復帰。「[[打率]].316・41本塁打・101[[打点]]」の成績で[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と打点王の2冠に輝き、[[野村克也]]の9年連続本塁打王を阻止する。また同年は14捕殺を記録するなど守備でも貢献。リーグ3連覇の原動力となり[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を受賞した。同年の巨人との[[1969年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも第3戦で延長11回に[[高橋一三]]からサヨナラ安打を放つなど活躍。チームは敗退したが2年連続でシリーズ敢闘選手賞を獲得した。[[1970年]]は開幕から四番打者を務めるも、[[アキレス腱]]を痛めた影響で28本塁打に終わる。
 
[[1971年]]、「打率.317・40本塁打・114打点」で2度目のMVPを授賞。またこの年、当時日本新記録となる32試合連続安打を成し遂げた。新記録がかかった32試合目もプレッシャーなどまるで感じさせず、3打席連続本塁打と言う豪快な形での達成だった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09july/KFullNormal20090701150.html 【7月6日】1971年(昭46) 長池徳士、妻の前での日本記録は豪快な本塁打] - スポニチ</ref>。これは[[1979年]]に[[広島東洋カープ|広島]]の[[高橋慶彦]]に塗り替えられたが、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]記録として現在も残っている。しかし4度目の巨人との[[1970年の日本シリーズ|日本シリーズ]]も敗退、日本一には届かなかった。