削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
7行目:
 
== 略歴 ==
バトゥ家の実質最後のハンであった第13代君主[[ベルディ・ベク]]が死去した14世紀半ば以降、ジョチ・ウルスの二つの根幹であったバトゥ家、オルダ家が相次いで断絶し、ジョチ・ウルスは宗主位を巡って激しい後継者紛争が続いた。オロス・ハンはオルダ家が統率していた[[オルダ・ウルス|ジョチ・ウルス左翼]]を構成するジョチ裔トカ・テムル家の王族のひとりであり、オルダ家断絶後のジョチ・ウルス左翼の地域で徐々に頭角を現してウルスの再編を行っていた。
 
[[1368年]]、[[グナク]]でハン位につくと、バトゥ家と[[オルダ・ハン|オルダ]]家が断絶して以来混乱の続くジョチ・ウルスを統合し、ウルスの左右両翼の再編を目指し、[[1372年]] [[サライ (都市)|サライ]]を占領する。しかし[[ヴォルガ河]]流域を支配していた[[ママイ (キヤト部)|ママイ]]の勢力とは争わず、[[シルダリヤ川|シルダリヤ]]方面に帰還する。[[1376年]]、[[ティムール]]の支援を受けた[[トクタミシュ]]の数次にわたる侵攻を受ける。以前、オロスは同じトカテムル家ウルン・テムル裔のサリチャの曾孫でマンギシュラク(カスピ海東岸)の長官トイ・ホージャと対立し、彼を殺害していた。ティムールと結んだトクタミシュはこのトイ・ホージャの息子であり、オロスはトクタミシュを年少の所以をもって助命したが、トクタミシュは脱走と帰順を繰り返した後にティムールの元に亡命していた。1度目は子のクトゥルク・ブカに迎え撃たせ、トクタミシュの撃退には成功したものの、クトゥルク・ブカが戦死を遂げる。2度目の侵攻では長子のトクタキヤが敗北するも、トクタミシュを負傷させ撤退に追い込んだ<ref name="aiha71">S.G.クシャルトゥルヌイ,T.I.スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、71頁</ref>。3度目はティムールが自ら兵を率いて攻めて来たが、オロスは部隊を[[オトラル]]に派遣し、オロス自身はグナク(サウランとの説も)を固めて持久戦に持ち込んだ。冬の到来によって両者は休戦し、ティムールは[[シャフリサブス|ケシュ]]に帰還する。
 
翌[[1377年]]春、ティムールの再度の侵攻を迎え撃ち、ウストユルト台地で戦ったが、対陣中に没した。死因については自然死、あるいは負傷がもとで戦死したとする説がある<ref name="aiha71"/>。
 
祖父のエルゼンにならってグナクに多数の建築物を寄進しているほか<ref name="aiha71"/>、[[ヒジュラ暦]]776年([[1374年]]-[[1375年]])、ヒジュラ暦779年(1377年-[[1378年]])にサライで鋳造した貨幣が現存する。
 
== 子女 ==