「安珍・清姫伝説」の版間の差分
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上述したように、その原型には『大日本国法華験記』(巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」)の説話があり、これが『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」に伝承されている{{sfnp|志村|2007a|p=153}}<ref name=shimura/>。原文をくらべると前者は漢文で{{sfnp|浜下|1998|p=130}}<ref name=hokke_genki/><ref name=yabuno1/>、後者は読み下してあるが<ref>{{harvp|浜下|1998|p=130}}: "漢文を和文化したもの"</ref><ref name=konjaku/>、ほぼ同文である<ref>{{harvp|三田村|1911|p=275}}: "全く同様..唯だ文章が驗記は漢文、今昔は國文であるだけが違って居る"。</ref><ref name=shimura/>。
『法華験記』本のあらましでは<ref name=hinata-genki>{{harvp|日向|2003|p=44}}; {{harvp|日向|渡|神鷹|2006|p=63}}</ref>{{sfnp|浜下|1998|pp=129-130}}、[[荘官|庄司]]の娘の代わりに、牟婁郡の[[寡婦]](必ずしも未亡人とは限らない{{sfnp|馬淵|国東|
=== 道成寺縁起 ===
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これらのいずれにおいても安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『[[元亨釈書]]』([[1322年]])である。ただし鞍馬寺に居たことになっており{{sfnp|三田村|1911|p=276}}<ref name=shimura/>{{Refn|『元亨釈書』巻一九「釈安珍」{{sfnp|徳田|1997|p=207}}。}}<ref name=genko_shakusho/>、後の奥州白川の僧という設定と異なっている。また、出身はみちのくであるが(現・宮城県[[角田市]][[藤尾村 (宮城県)|藤尾]]<!--典拠では[[伊具郡]]藤尾だが、これは旧地名で、現今の郡内になく分立した角田市にある-->の[[住吉神社 (角田市)|東光院]]の山伏・住持)、京都の鞍馬寺で修行したと辻褄を合わせている民話が角田市界隈に伝わる{{sfnp|及川|1958|p=50}}。
清姫の名の初出は[[並木宗輔]]作の[[浄瑠璃]]『道成寺現在蛇鱗』([[寛保]]2/[[1742年]]初演)とされる{{sfnp|林|2005|p=113}}。浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』([[宝暦]]9/[[1759年]])にも清姫の名はみえる{{sfnp|三田村|1911|p=183}}。なお、清姫の名は、その父親の名とされる庄司の清次からとられていると
=== 伝承内容の相違 ===
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