「重明親王」の版間の差分

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皇位を巡る争いとは生涯無縁であったが、学識豊かで楽才にも優れた風流人であり、父醍醐天皇は崩御の間際に重明親王を[[代明親王]]共々召して遺詔を託したとされている。また異母弟[[村上天皇]]の宮中でもことに重んじられて、管弦の宴などでは必ず[[和琴]]や[[笛]]に加わった。[[摂関家]]との関係も良好で、始めに[[太政大臣]][[藤原忠平]]の娘[[藤原寛子 (藤原忠平女)|寛子]]と結婚、天慶8年(945年)に寛子が死去すると、天暦2年(948年)に寛子の姪にあたる[[藤原登子|登子]]を後妻としている。また寛子所生の長女[[徽子女王]]、次女[[悦子女王]]の二人が相次いで[[斎宮]]に卜定、徽子女王は斎宮を退下したのち村上天皇に入内して斎宮女御と称された。
 
重明親王は一風変わった逸話の多い人物で、日輪が家に入り[[鳳凰|金鳳]]が飛来する夢を見て、将来帝位に関わる兆しかと期したという伝説がある(親王の邸宅は後に[[藤原兼家]]が住んだ[[東三条殿]]であった) 。また『[[江家次第]]』によれば、ある時蕃客([[渤海_(国)|渤海]]の使者)が参入した時、親王が鴨毛の車に[[貂]]の皮衣を八重重ねで纏っていたので使者たちが大いに恥じたと言われ、風雅を愛する一方で豪気な一面も持ち合わせていたらしい。また『[[今昔物語]]』に登場する話では、東三条殿の庭園に怪しい太った[[五位]]が夜な夜な姿を見せるので、親王が怪しんで[[陰陽師]]に占わせると東南の隅から銅の提(ひさげ)が現れ、以後五位は姿を見せなくなったという。
 
なお親王の日記『[[吏部王記]]』は原本も写本も現存しないが、後世の日記や書物に引用された逸文から見て、朝議に関する詳細な記録を書き留めたものであったらしく、当時の朝廷の儀式・典礼に関する貴重な史料である。