「シンボリクリスエス」の版間の差分

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ティーケイは、1991年にアメリカで生産された父ゴールドメリディアンの牝馬である<ref name="JBIS-ティーケイ">{{Cite web|title=Tee Kay(USA)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000432426/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-12-18}}</ref>。競走馬として、1994年のマーサワシントンステークス({{G3}})を勝利するなど、31戦4勝<ref name="JBIS-ティーケイ" />。引退後は、アメリカで繁殖牝馬となった。初年度は、[[ゴーンウェスト]]と交配して初仔の牡馬を生産<ref name="優駿-2003-2-134135" />。2年目は、不受胎に終わり、3年目は、[[クリスエス]]と交配<ref name="優駿-2003-2-134135" />。受胎した後、1998年11月の[[キーンランド競馬場|キーンランド]]の繁殖牝馬セールに上場され、[[シンボリ牧場]]に30万ドルで購入された<ref name="優駿-2003-3-127132" />。
 
シンボリ牧場は、[[千葉県]][[成田市]]や[[北海道]][[日高町 (北海道)|日高町]]などを拠点とする[[オーナーブリーダー]]である<ref name="優駿-2003-3-127132" />。1921年に和田孝一郎が開き、イギリス留学から帰ってきた孝一郎の長男、共弘は2代目としてヨーロッパ流の配合や育成を実践<ref name="優駿-2003-3-127132" />。[[メジロアサマ]]や[[サクラショウリ]]、[[スピードシンボリ]]、さらに[[シンボリルドルフ]]や[[シリウスシンボリ]]を生産した<ref name="優駿-2003-3-127132" />。やがて共弘は、日本の競馬に対する興味を失い、外国で100頭以上の競走馬を所有し、特にヨーロッパに傾倒<ref name="優駿-2003-3-127132" />。共弘の長男、孝弘によれば「(シンボリ)ルドルフで得た金を全部ヨーロッパに投資してしまった<ref name="優駿-2003-7-6467">『優駿』2003年7月号 64-67頁</ref>」という。共弘は日本の牧場を廃業して[[霊園]]に転向することなどを検討していたが、孝弘がコンピューター会社を退職して跡を継ぎ{{efn|孝弘は、[[帯広畜産大学]]を卒業した後、半年間[[ニュージーランド]]の牧場に留学。帰国後に父と不和となり家出し就職したという経緯がある<ref name="優駿-1999-7" />。孝弘は、後に受けた吉川良の取材に対し、家出の理由として「逃げたんですよ。自信をなくして<ref name="優駿-2003-3-127132">『優駿』2003年3月号 127-132頁</ref>」と答えている。}}、3代目となった<ref name="優駿-2003-3-127132" /><ref name="優駿-1999-7" />。共弘の亡くなった1994年以降、孝弘はヨーロッパに偏る状況から、共弘の嫌ったアメリカ流の配合や血統を積極的に牧場へ導入するようになる<ref name="優駿-1999-7" />。1995年にアメリカケンタッキー州、[[レキシントン (ケンタッキー州)|レキシントン]]で繁殖牝馬を購入する<ref name="優駿-1999-7" />。現地に預託してアメリカで生産された仔は、日本に渡ってり、[[シンボリインディ]]{{efn|ティーケイを購入した繁殖牝馬セールと同時期の1998年11月に競走馬デビュー。その半年後の1999年5月、[[NHKマイルカップ]]({{GI}})を優勝する<ref name="JBIS-シンボリインディ" />。}}となりが活躍した。シンボリインディは、[[美浦トレーニングセンター]]の[[藤沢和雄]]厩舎に入厩している<ref name="優駿-1999-7">『優駿』1999年7月号 109-114頁</ref><ref name="JBIS-シンボリインディ">{{Cite web|title=シンボリインディ(USA)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000310686/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-12-18}}</ref>。
 
シンボリ牧場は、購入したティーケイをアメリカ、ケンタッキー州のミルリッジファームに預託<ref name="優駿-2019-6-7883" />。1999年1月21日、ミルリッジファームにてティーケイの2番仔(後のシンボリクリスエス)が誕生する<ref name="優駿-2019-6-7883" />。孝弘は2番仔の父、種牡馬のクリスエスについて「跳ね返ってくるような強烈な雰囲気があったんだ<ref name="優駿-2003-3-127132" />」、また「中・長距離向きで、精神的にも落ち着いており、日本の競馬に合うだろう<ref name="優駿-2002-6-17" />」と見立てていた。
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生後3カ月の2番仔を見た孝弘は「脚の長い、ひょろっとした馬だな<ref name="優駿-2019-6-7883" />」、アメリカの牧場に検分に訪れた藤沢は「黒くてでっかくて見栄えがする。この馬なら高く売れるでしょう<ref name="優駿-2002-6-17" />」とそれぞれ評している。
 
シンボリ牧場はこの年、アメリカに3頭の牡の仔を所有していたが、2番仔は最も期待された馬ではなかった<ref name="優駿-2003-7-6467" />。日本のとある調教師から管理の申し出があったが、孝弘はそれを断り、2番仔を整理の対象とした<ref name="優駿-2003-7-6467" />{{efn|同じく、2番仔の母ティーケイも整理の対象となった。キングマンボとの仔を受胎した後に上場、26万ドル<ref group="注釈">『名馬を読む2』85頁(著:江面弘也)には27万ドル、『優駿』2019年6月号 80頁(著:軍土門隼夫)には26万ドルとされている。</ref>で売却されている<ref name="名馬2-85" /><ref name="優駿-2019-6-7883" />。}}。1歳に達した2番仔は、幼駒セリに上場。シンボリ牧場は、希望価格40万ドルに設定して売却が図られを狙っていた<ref name="優駿-2003-3-127132" />。しかし、入札額は37万5000ドルに留ってでで売却に失敗。主取りとなり、所有はシンボリ牧場に留まっが所有を続けた<ref name="優駿-2003-3-127132" />。
 
シンボリ牧場は、この年、アメリカで所有した3頭の牡の仔のうちを所有していた。そんな中で、最も期待されていたのは、[[重賞]]2着となった経験のあるシンボリスウォード{{efn|シンボリスウォードは、日本の競走馬。父は[[グリーンデザート]]である。1999年のバーデンバーデンカップ(OP)、[[キーンランドカップ]](OP)優勝。1999年の[[函館スプリントステークス]]({{GIII}})2着、2001年の[[アイビスサマーダッシュ]]({{GIII}})2着となった。通算成績28戦8勝<ref>{{Cite web|title=シンボリスウォード(IRE)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000299187/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-12-18}}</ref>。}}、重賞を制した優勝馬スイートオーキッド{{efn|スイートオーキッドは、日本の競走馬。父は[[ゴーンウェスト]]である。2000年の[[クリスタルカップ]]({{GIII}})優勝。通算成績14戦3勝<ref>{{Cite web|title=スイートオーキッド(USA)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000321287/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-12-18}}</ref>。}}の弟であるだった<ref name="優駿-2003-7-6467" />。「シンボリスウォードの弟」は当初、日本に移り、シンボリインディと同様に日本に渡り、藤沢厩舎からデビューする予定であった<ref name="名馬2-85" />。しかし、移動させる前に死亡。その代わりとして2番仔が選ばれ日本に渡ることとなっていた<ref name="名馬2-85">『名馬を読む2』85頁</ref>。アメリカで育成が進めら施さたのち、2歳時に日本へ移動する<ref name="優駿-2019-6-7883" /><ref>{{Cite web|title=漆黒の大器(シンボリクリスエス) - netkeiba.com名馬列伝 {{!}} 競馬コラム|url=https://news.netkeiba.com/?pid=column_view&cid=26042|website=netkeiba.com|accessdate=2021-12-18|language=ja}}</ref>。
 
2番仔は「父にそっくりだった<ref name="優駿-2002-6-17" />」ことから、シンボリ牧場の[[冠名]]「'''シンボリ'''」に、父の名をそのまま用いた「'''クリスエス'''」を組み合わせて「'''シンボリクリスエス'''」と命名された<ref name="優駿-2002-6-17" />。シンボリクリスエスは、藤沢厩舎に死んでしまった「シンボリスウォードの弟」の代わりとして入厩する<ref name="名馬2-85">『名馬を読む2』85頁</ref>。

生産者の名義は、シンボリクリスエスの生誕したミルリッジファームではなく、繁殖牝馬の所有者である和田孝弘もとい、アメリカでの呼称"{{Lang|en|Takahiro Wada}}"である<ref name="優駿-2019-6-7883" />。日本の生産者ではあるが、[[外国産馬]]に分類された<ref name="優駿-2019-6-7883" />。
 
== 競走馬時代 ==
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3歳馬による優勝は、1937年[[ハツピーマイト]]、1996年[[バブルガムフェロー]]に続いて史上3頭目<ref name="優駿-2002-12-134135" />。外国産馬による優勝は、前年の[[アグネスデジタル]]に続いて史上4頭目{{refnest|group="注釈"|他に1954年[[オパールオーキツト]]、1956年[[ミツドフアーム]]。(1971年から1999年まで外国産馬は出走できなかった。)}}<ref name="優駿-2002-12-134135" />。デビュー9戦目での優勝は、バブルガムフェローの7戦に次ぐ史上2位の記録であった<ref name="優駿-2002-12-2225" />。また走破タイム1分58秒5は、コースレコードタイであった<ref name="優駿-2002-12-2225" />。藤沢はバブルガムフェロー以来2勝目、加えて岡部は、1990年[[ヤエノムテキ]]以来となる天皇賞(秋)2勝目であった<ref name="優駿-2002-12-134135" /><ref name="優駿-2002-12-2225" />。また岡部はこの時53歳11か月であり、史上最年長{{GI}}勝利記録を樹立した{{refnest|group="注釈"|岡部にとって生涯最後の{{GI}}優勝となる。<ref>{{Cite web|title=岡部 幸雄:競馬の殿堂 JRA|url=https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/jockey04.html|website=www.jra.go.jp|accessdate=2021-12-16}}</ref>}}<ref name="優駿-2019-6-7883" />。さらにシンボリ牧場系列にとっては、1967年春[[スピードシンボリ]]、1985年春の[[シンボリルドルフ]]以来3度目の天皇賞優勝であった<ref name="優駿-2002-12-2225" />。
 
それから11月24日、同じく中山競馬場で行われた[[ジャパンカップ]]({{GI}})に、[[オリビエ・ペリエ]]へ乗り替わって出走。外国調教馬7頭を迎えたこの競走は、4番人気まで日本調教馬が占め、シンボリクリスエスが単勝オッズ3.4倍の1番人気。以降人気は、ナリタトップロード、前年の優勝馬で[[天皇賞(春)]]2着から臨む[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]、ノーリーズンと続いた<ref name="ネット競馬-2002-JC" /><ref>{{Cite web|title=ジャパンカップ|url=https://db.netkeiba.com/race/200206040810/|website=db.netkeiba.com|accessdate=2021-12-15}}</ref>。シンボリクリスエスは、発馬機内で暴れて出遅れ、後方に位置<ref name="ネット競馬-2002-JC" />。最終コーナーにて外から追い上げたが、内から伸びる外国調教馬2頭、9番人気[[ファルブラヴ]]、11番人気サラファンの争いにクビ差届かず3着となった<ref name="ネット競馬-2002-JC">『優駿』2003年1月号 40-43頁</ref>。
 
==== 有馬記念 ====