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穆宗は酒におぼれて、たびたび小さな理由で人を殺すようになった。雉を管理していた者が雉を傷つけて逃がしてしまったため、穆宗はかれを捕らえて殺そうとした。夷臘葛が「この罪は死に当たりません」と諫めたが、穆宗はかれを殺して遺体の処分を夷臘葛に任せた。また監鹿詳穏が1匹の鹿を逃がしてしまったことがあったが、穆宗は詳穏を獄に下して死罪に当たるとした。夷臘葛が「人命は重いものであるのに、どうして1匹の獣のためにこれを殺すべきでしょうか」と言って諫めたので、詳穏は赦免された。
 
遼の法では、角の多い牡鹿は天子だけが射ることができることになっていた。応暦18年([[968年]])の秋の狩猟でこの牡鹿が現れたので、穆宗は夷臘葛に命じて射させると、夷臘葛はみごとに牡鹿を射たおした。穆宗は大喜びして、夷臘葛に金銀100両ずつと名馬100匹と黒山の東の抹真の地を与えた。夷臘葛は政事令を兼ねた。
 
応暦19年([[969年]])1)正月、穆宗が酒に酔いつぶれていたため、夷臘葛が土牛を撃つ礼を代行した。2月、穆宗が殺害されると、夷臘葛は護衛の任務を果たせなかった責任を問われて処刑された。
 
== 伝記資料 ==