中国北部の遊牧民王朝。916年-1125年
大遼
契丹國
契丹
唐
渤海 (国)
後晋
916年 - 1125年 金 (王朝)
西遼
北遼
南遼
カムク・モンゴル
大遼の国旗
(国旗)
大遼の位置
西暦1000年頃の遼の版図
公用語 契丹語中古漢語
宗教 仏教道教アニミズム
首都 上京臨潢府(現バイリン左旗
皇帝
916年 - 926年 太祖
927年 - 947年太宗
1101年 - 1125年天祚帝
面積
947年2,600,000km²
1111年4,500,000km²
変遷
建国 916年3月17日
国号を「遼」と改称する947年2月24日
高麗侵攻993年 - 1020年
北宋澶淵の盟を締結する1004年
によって滅亡1125年3月26日
徳宗西遼を建国する1132年
通貨銅銭紙幣
現在中華人民共和国の旗 中華人民共和国
モンゴルの旗 モンゴル
ロシアの旗 ロシア
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮

(りょう)は、遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた異民族王朝であり、いわゆる征服王朝(が続く)とされる。ただし、燕雲十六州遼寧のみの領有であり、金・元・清のように中原を支配下にはおいていない。

各種表記
繁体字
簡体字
拼音 Liáo
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西周

東周
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後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲
 
中華人民
共和国
中華
民国

台湾

名称編集

建国当初の国号大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、便宜上まとめて遼とする。

歴史編集

 
北宋、遼(簡体字で「」)、西夏の境域図。北宋政和元年、遼天慶元年(1111年
 
北宋、遼(簡体字で「」)、西夏の図
モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
月氏 匈奴 東胡
南匈奴
丁零 鮮卑
高車 柔然
鉄勒 突厥
  東突厥
回鶻
黠戛斯 達靼 契丹
ナイマン ケレイト 大遼
(乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
北元オイラト
大清ハルハ
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、916年天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。

さらに2代耶律徳光五代後晋から華北北京大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、最初の征服王朝と評価されている。

太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ遠征軍を送り澶淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量のを宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。

その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。

女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳南遼13世紀に成立した旧王族耶律留哥東遼などもある)。

政治編集

遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、南は唐制を模倣した法制で臨んだ。

北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。

南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。

この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これをの体制に一本化しようとする派と契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。

遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って遠征軍に入ることもあった。

満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
前漢 遼西郡 遼東郡 衛氏朝鮮 匈奴
漢四郡 夫余
後漢 遼西郡 烏桓 鮮卑 挹婁
遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
西晋 平州
慕容部 宇文部
前燕 平州
前秦 平州
後燕 平州
北燕
北魏 営州 契丹 庫莫奚 室韋
東魏 営州 勿吉
北斉 営州
北周 営州
柳城郡 靺鞨
燕郡
遼西郡
営州 松漠都督府 饒楽都督府 室韋都督府 安東都護府 渤海国 黒水都督府 靺鞨
五代十国 営州 契丹 渤海国 靺鞨
上京道   東丹 女真
中京道 定安
東京道
東京路
上京路
東遼 大真国
遼陽行省
遼東都司 奴児干都指揮使司
建州女真 海西女真 野人女真
満洲
 

東三省
ロマノフ朝
中華民国
東三省
ソ連
極東
満洲国
中華人民共和国
中国東北部
ロシア連邦
極東連邦管区/極東ロシア
中国朝鮮関係史
Portal:中国

地理編集

遼の領域は五道に分けられ、それぞれに中心都市が設けられた(→複都制)。

都は上京臨潢府(現在の内モンゴル自治区バイリン左旗の南、バイリン左旗は内モンゴル自治区南部の赤峰市から北上した大興安嶺山脈の麓にある)に置かれた。

日本との関係編集

中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかったが、『遼史』の「太祖本紀」には天賛4年(925年)冬十月庚辰に「日本国、来貢す」との一文がある[1]。 また日本側の『中右記』によれば寛治6年(1092年9月13日の記事として、明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている[2]。続いて、嘉保2年(1094年5月25日前大宰権帥正二位中納言藤原伊房前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下位階を剥奪された[3]

なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。『将門記』によれば、939年承平天慶の乱の折、将門が時の太政大臣藤原忠平の四男・藤原師氏に当てた奏状に「今の世の人は、必ず勝つ実力をもって君主となる。たとえ我が朝廷でなくとも、人の国であることに変わりがない。去る延長年間の大赦契王(大契丹王の誤り)の如きは、正月一日に渤海国を討ち取り、東丹国を成している。どうして力をもって占領しないことがあろうか」との一文がある[4]

高麗との関係編集

993年、契丹は鴨緑江以南高句麗の故地を獲得するためにはじめて高麗に進攻した。翌年、高麗は使を遣わして契丹に赴き、契丹の正朔(契丹の統治に服従する)をおこなうことを告げた。その後、顕宗元年1010年)に至る時期に、高麗は契丹に方物を献じ、契丹語を習い、を請い、を納め、冊封を乞い、生辰を賀するなどの修好をおこなった[5]。『高麗史』は、この時代の歴史記述において、契丹皇帝を「契丹主」と記している[5]高麗王顕宗が即位すると、契丹は康兆の弑君を理由に大いに問罪の師を興し、高麗は使を遣わして和を請うたが果さず、遼聖宗は高麗に親征し、この年(1010年)十二月郭州を攻陥した[5]

遼の皇帝編集

契丹と遼 907年 - 1125年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
太祖 大聖大明神烈天皇帝 阿保機 耶律阿保機 907年 - 926年7月
淳欽皇后 月里朶 述律平 926年7月 - 927年11月 天顕 926年 - 927年
太宗 孝武恵文皇帝 徳光 堯骨 耶律徳光 926年11月 - 947年4月
世宗 孝和荘憲皇帝 兀欲 耶律阮 947年4月 - 951年9月 天禄 947年9月 - 951年9月
穆宗 孝安敬正皇帝 璟/明 述律 耶律璟 951年9月 - 969年2月 応暦 951年9月 - 969年2月
景宗 孝成康靖皇帝 明扆 耶律賢 969年2月 - 982年9月
聖宗 文武大孝宣皇帝 隆緒 文殊奴 耶律隆緒 982年9月 - 1031年6月
興宗 神聖孝章皇帝 宗真 只骨 耶律宗真 1031年6月 - 1055年8月
道宗 孝文皇帝 洪基 査剌 耶律洪基 1055年8月 - 1101年1月
延禧 阿果 耶律延禧 1101年2月 - 1125年2月
南遼 1122年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
宣宗 孝章皇帝 涅里 耶律淳 1122年3月 - 6月 建福 1122年3月 - 6月
耶律定摂政蕭普賢女 1122年6月 - 12月 徳興 1122年6月 - 12月
北遼 1123年
雅里 耶律雅里 1123年5月 - 10月 神暦 1123年5月 - 10月
朮烈 耶律朮烈 1123年10月 - 11月 神暦 1123年10月 - 11月
西遼 1132年 - 1218年
廟号 諡号 漢名 契丹名 常用名称 在位時間 年号
徳宗 天祐皇帝 大石 耶律大石 1124年7月 - 1143年
感天皇后 塔不煙 蕭塔不煙 1144年 - 1150年 咸清 1144年 - 1150年
仁宗 正徳皇帝 夷列 耶律夷列 1151年 - 1163年 紹興 1151年 - 1163年
承天皇后 普速完 耶律普速完 1164年 - 1178年 崇福 1164年 - 1178年
文顕皇帝 直魯古 耶律直魯古 1179年 - 1211年 天禧 1179年 - 1211年
閔文皇帝 屈出律 屈出律 1212年 - 1218年 天禧 1212年 - 1218年

系図編集

太祖
1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
突欲
(義宗)
 
太宗
2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
世宗
3
 
穆宗
4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
景宗
5
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
聖宗
6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
興宗
7
 
 
 
 
 
呉哥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
道宗
8
 
和魯斡
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

(順宗)
 
宣宗
南1
 
 
 
 
 
 
徳宗
西1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天祚帝
9
 
 
 
 
 
朮烈
北2
 
仁宗
西2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雅里
北1
 
秦王
(南2)
 
 
 
 
 
天禧帝
西3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(女)
 
末主
西4
 

太字は皇帝、南は南遼、北は北遼、西は西遼、数字は即位順、括弧は追尊された人物の廟号。

脚注編集

  1. ^ 杉山正明 編 『中国の歴史8 疾走する草原の征服者』講談社、2021年2月9日、91頁。ISBN 978-4062060165 
  2. ^ 野口実 『東国武士と京都』同成社〈同成社 中世史選書〉、2015年10月9日、93頁。ISBN 4886217117 
  3. ^ 池上, 裕子小和田, 哲男小林, 清治 他 編 『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月1日、201頁。ISBN 978-4065223109 
  4. ^ 杉山正明 編 『中国の歴史8 疾走する草原の征服者』講談社、2021年2月9日、83-84頁。ISBN 978-4062060165 
  5. ^ a b c 吉本智慧子 (2008年12月). “Original meaning of Dan gur in Khitai scripts: with a discussion of state name of the Dong Dan Guo” (PDF). 立命館文學 (609) (立命館大学人文学会): p. 9. オリジナルの2016年10月19日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161019143454/http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/yosimoto.pdf 

参考資料編集

関連項目編集